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真岡・絶望の逃避行 ②  [記事]

 絶望の逃避行  

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。 
  前回の続きです。
 重いリュックを担いでみたものの、妻を背負って逃げる場合を考え、諦めると、裏口の防火用バケツそれぞれ頭をかぶりながら、官舎を飛び出すとジャガイモ畑を一気に走った。

 起伏する丘を私達は稜線目指して走った。霧が薄らいで朝の太陽に光る芋の葉の露、紫の白の花、ブスッブスッと弾丸が足下に刺さり、頭上をかすめる。私達が狙撃されているような恐怖、妻は10歩走って「もう、駄目」とあえぎ、5歩走っては倒れる。そのつど私は駆け戻って、叱りつけ、妻の手を引っ張っては走り、朝露に濡れた土に伏せ、また走る。長い時間のように感じたが30分も走ったのであろうか。私達はバケツをかぶった異様な姿で、稜線の陰に体を投げ込むように駆け込んだ。

 そのうちにこの山陰にあちこちから人々が逃げてくる。顔見知りの憲兵もいる。稜線からのぞくと、霧の中で町の数カ所から大きい黒煙が上っている。建物の陰になって埠頭は見えないが、あちこちでアリのように活発に動いている。おびたたしい人、ソ連兵は完全に上陸したのであろう。

 沖合には軍艦らしいものが、白い霧を通してふたつみっつち見える。黒煙はみるみる赤い炎とって天を焦がす。稜線めがけて弾丸は激しい。

 妻をうながして、真岡沢に向かう。山陰から、真岡沢の入り口から、続々町の人たちが逃げてくる。沢に入ったので機銃弾は飛んでこなくなったが、砲声はますます盛んになった。真岡沢から林道に上る決心をして、妻を引っ張るように進み、沢の苗圃の事務所に着いた。管理人はいち早く逃げ出したらしい。勝手知った台所に入ると飯を炊いたばかりの釜が空っぽで放ってある。畳に靴の跡、後から来た避難民が、ごっそり頂戴していったらしい。

 私達は朝飯前だったし、これから先の林道のことを考え、まず食料と飲み水を用意するべく一反風呂敷と米、干し魚を無断借用、裏口に回って、コンコンとあふれるわき水腹一杯飲んで、一升瓶にも詰めた。

 これだけではまだ不安なので、荒縄を持って、鶏小屋に入った。しかし、鶏は騒ぎ立て、逃げ回ってなかなか捕まえることができない。その代わり、産みたての卵が二つ、逃げ出した巣箱にあったので、一つずつご馳走になった。これが2月20日の朝食であった。
 
 苗圃のそばを次々に通っていく避難民の中に、私の係の女子職員がいた。私は転がっている一升瓶に水を入れて持って行くように進めた。事務所を出て暫く行くと、沢の奥の原っぱに数百人の人たちが集まっていた。裸足の男、布団に老人を包んで担いできた中年の男、小さい子供の手を引いて不安そうな表情の婦人、中にリュックやトランクを持った人もいたが、殆どは着の身着のままである。

 「林務の者はいないか」大声で叫んでいる。近づいてみると日影舘支庁長である。私を見ると豊真山道の合流点まで案内せよという。私は妻がこの通り病人なので先頭に立って案内はできないが--といって、支庁長ら主だった人たちに、避難道を詳しく知らせた。

つづく。


 津軽海峡函館湾
 右上の黒く見える山が函館山。
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 函館湾に入ってきました。
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 画面中央の黒い線が見えますが防波堤です。
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 フェリー埠頭
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真岡・絶望の逃避行 ① [記事]

 絶望の逃避行

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。
 死の恐怖におびえながら、町にとどまって人たちとは別に、不気味な砲声に追われるように豊真山道(豊原ー真岡の道路)などを逃げた人々もまた死に勝る苦労をしたのである。避難民の数は15,000とも18,000人とも言われた。真岡から豊原方面に抜ける豊真山道の入り口は、町の北の外れにあったため、昭和18年、真岡林務署が、南の金田の沢から入って逢坂に抜ける”避難道路”をつけたいた。西村宗信(元真岡林務署林産航空油主任)は、「私が造林主任だった昭和18年、細越業務課長の発案で、敵が上陸したときに備える避難林道を造った。初め真岡沢を起点にしようかと思ったが、急峻なため金田の沢に変更した。幅1.2メートル、延長15キロ、道はつけたものの、翌年からは維持費がつかずあれるに任せ、私自身も忘れていたが、真岡最後の日に思い出した。

 使用されたのはわずか一日だけであったが、数千の人たちの生命がこの避難林道によって救われたことの喜びと悲しみ、私は生涯忘れることができない、20年たった今、あの林道は白樺やとど松が密生し、もはや熊も通る路もないであろうが・・・・」と語っている。
 西村さん自身もこの道を避難したのである。西村さんは避難林道を逃げたときの状況を次のように語っている。

 バリバリと脳天がさけるばかりであった。空襲ーー私は、直感的に妻を引っ張るように前の防空壕に前の防空壕に飛び込んだ。10秒、20秒壕の中で私は不安に襲われ、妻の制止も聞かず、顔を出してみると、海からも銃砲声、壕がときおりズシーンと揺れる。しかし、天地を引き裂くような銃砲声の中で、この南浜町は道路にも官舎街にも人影一つ見えず、不気味なほど静まり帰っている。

 みんな私達だけ残して、逃げ去ってしまったのだろうか。今ソ連兵がやってきたら身を守る小刀とてない---逃げよう。妻は手術を受けて退院したばかりで、歩行さえ思うようにならないが、このままでは必ず殺される。よし、逃げられるだけは山に逃げよう。私は無理矢理妻をせき立てて、官舎に戻り、新しいもんぺ、地下足袋をつけさせた。
    
つづく。


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ソ連軍、停戦後の豊原空襲 [記事]

停戦後の豊原空襲


 22日、知取において停戦交渉が成立「捕虜となるも即時停戦せよ」との師団命令が各部隊に出されたが、同日午後、豊原市はソ連機の空襲を受け、緊急疎開のため豊原駅前広場に集まっていた老人、婦人、子供たちの中から多くの犠牲者が出た。停戦交渉成立後二時間以上経過の惨事である。

 ソ連機による南部地区への空襲は豊原空襲以前には、前日の21日午後、内淵の人造石油工場を空襲した八機が落合町を空襲した。

 北海道庁に戦後、引き揚げ者がもたらした報告として残っている資料では内淵の人造石油工場で死者3人、落合駅付近と映画劇場付近で約60人の死者があったという。

 「21日、私達は駅前にテントを張り、婦女子の疎開の事務をやっていたと、内淵方面で落雷のような音がして怪訝そうにみんなが語り合っていると、まもなくソ連機が低空で突っ込んできた。駅が目標と判断した私達は駅前に集まっていた大勢の人たちに「『近くの防空壕に避難するのだ』」と叫び、私自身飛び込んだ瞬間、ものすごい振動で、壁に体をいやと云うほど打ち付けられた。死者数は把握していないが相当な数であった」。

 終戦になると市役所の斡旋で、白布を集めて白旗を作った。豊原の駅舎の屋根や周辺の建物の屋上等に掲げ、無抵抗であることを示した。

 一方、疎開列車は東海岸線を奥地からやってくる列車のほか真岡方面からのものもあって大泊駅が大混乱、20日には残客が大勢出たので市内で宿泊、配船を待っている。

 21日分の収容力が、全くないから列車は豊原で打ち切って収容して欲しと大泊駅長からの要求があった。しかし、真岡方面からの260人を乗せた列車が入って午前10時には発車することになっており、続いて正午には敷香方面からの列車が入ってくることになっており、さらに構内の仕分け線は貨車が満杯で、やむなく真岡からの列車は発車させた。

 そして380人を乗せた次の列車ちょっと遅れて午後零時15分遅れて豊原駅に滑り込んできた。乗客下車させて駅前広場に誘導、市職員が町村ごとに宿舎を割り当てた。

 そのとき駅員が「敵機襲来」と叫んだ。ソ連機が2機駅の広場にいた避難民に機銃掃射や爆弾を落としていった。北海道庁の資料に死者108人とある。

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真岡・警察 [記事]

真岡警察の動き


 この真岡の混乱の中で当時、駅前交番に勤務、かたわら鑑識の仕事していた宮崎行雄巡査、同署経済課油槽係、笠原辰巳さんらの話を綴ってみた。

 宮崎さんと笠原さんが非常呼集を受けたのは20日5時半頃、石浜町の下宿から走って本署に駆け込んだのは同45分だった。三浦春美署長らはすでに署内にあり、使丁さんは大きい釜で飯を炊き、味噌汁を煮ており、到着した者には次々小銃と弾丸920発ずつが配布された。署員は飯を飯ごうにつめ、鉄兜を背にくくりつけ、緊張した面持ちで署長、木村警防主任らの訓示を受けていた。

 ソ連軍はいずれ上陸を企てることは予想していたから、その場合、住民を誘導避難させ、ときによっては最後の抵抗を試みるための準備と分担はあらかじめ決まっていた。また住民の避難を指導するために警防団や消防署の幹部も同時に呼集されていた。

 不気味な弾道音が、突如、建物を振るわせるように飛んだのはそのときだった。そして、やがて海岸線に近づいたソ連の自動小銃弾が厚いコンクリートの壁に当たって跳ね返り始めると、本庁から南浜町にかけての路上には、町民が飛び出してきた。防空壕や家の中の防空室に隠れたものの、銃砲声が一段と強まり、ソ連軍の上陸が始まると恐怖がつのって逃げ出したのであろう。一部の署員は小銃や鉄兜を隠すと逃げまどう人たちを誘導するためばらばらと弾雨の中かけだしていったが、ソ連軍の銃砲火はその頃からひときわ激しくなった。

 徹甲弾のような大きな大きな弾丸が飛んで来始めた厚い庁舎の壁がみるみるうちに打ち砕かれ、崩れ落ちていった。

 宮崎さんは交換室に危険を避けて飛び込むと、警防員や同僚警察官がすでにぎっしりで、交換台の影などに隠れていた。もう下混む余地がないと判断すると、慌てて庁外に走り出て 防空壕に潜り込んだ。その豪は庁舎の前のアスファルト舗装の下をくりぬいたもので、その濠内では三浦署長と近村義治義治巡査部長、川崎伸宏巡査部長、鈴木稔巡査、ら八人が身を潜めていた。

 ソ連兵は警察署付近に進出してきた。豪の出入り口の蓋をかすかに持ち上げてみると、署の前の消防本部内にソ連兵がすでに侵入、3台のポンプ車を引き出し石油の一斗缶を積み上げている。焦土戦術かと見ているうちに、兵隊が乗って走り出した。木造の家に石油をかけて火を放ったのであろう。やがて、豪から見回す街は火の海と化した。黒煙の中から吹き出すような炎が、音を立てて家々を焼いていった。

 「どうする」三浦署長を中心に八人は、この危機をどうやってくぐり抜けるか、額を寄せて話し合った。しかし、脱出するにしても付近はすでにソ連軍に占拠されているに違いないし、このままでいては、いつかソ連兵に発見されて皆殺しになるでしょう。・・決断が容易に付かなかった。そのとき、川崎部長が「署長、私に任せてください」と申し出た。

 署長の許可を取った川崎部長は、豪の蓋をわずかに開けて、周囲の様子をうかがっていた。しかし、火勢も見る間に激しさを増し、川崎部長も飛び出すことができず、脱出の機会を失って壕内に身を潜ませているしか方法がなかった。

 宮崎さんは「私達はもう駄目だと思った。そして、死が目の前にぶらさがっているとなると、それまでの恐ろしさが消えてしまってただ無性に眠くてどうにもならなかった」と、不思議なそのときの心理を語っている。いつの間にか、みんなが座ったまま、うつらうつらとしていた。しかし何かの気配を感じたらしい一人が、壕の蓋をわずかに押し上げて外を見て将校と兵10人ぐらいが巡察しているのに気づいた。

 不安な数分、アスファルトの歩道を歩いて来るソ連兵が、壕の蓋の上に脚をかけると「ガタ、ガタ」と音がした。何か言い合うような声がする。

 息をのむ一瞬、ガタンと音がして蓋が開かれた。兵隊が着剣の先でこじ開けたのである。パッと飛び込んできたで、眠っていた人たちは目を開けた「パパーン」三、四発、壕内に向けて自動小銃が撃ち込まれた。

 「ウーッ」見ると入り口のそばにいた藤井巡査が倒れかかりながら、、何か言おうとするようにして口を動かした、川崎部長らが慌ててその口を手で押さえた。銃弾の一発は藤井巡査の左腕を貫通、一発は体内に入った。

 傷口を上にして同巡査の体を横たえ、ハンカチや手ぬぐいを集めて、あふれる血を押さえると川崎部長は、その耳元に口を当てて、「藤井、声を出すな。傷はたいしたことがない、すぐ手当てをしてやる」。声を出すよみんながやられるぞ」と声をころしてささやいた。

 樺太警友会名簿によると、同署員の死者は9名となった。

  金子俊男著 樺太終戦記録より


 スズランの実
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 モミジアオイ
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 オオハンゴンソウ
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 ヒメヒマワリ
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 ノコンギク
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真岡・ソ連部隊 [体験記]

 前回の記事で真岡の街はソ連の砲撃で街の姿が変わってしまった。歩兵第25連隊第1大隊は北真岡駅近くの市街の山手の荒貝沢に陣取った。

 霧の中にぼんやり見える埠頭倉庫のトタン屋根が,ぬれて、雨の後のように鈍く光っていた。

 真岡に上陸したソ連の兵力は、混成1固旅団といわれた。軽戦車二十数両と迫撃砲十数門を所有していたという。

 これだけの部隊を揚陸するソ連の輸送船団は、戦艦または巡洋艦、駆逐艦に護衛され、総数十数隻を超え威風まさに四囲を圧する大部隊であった。護衛艦の主砲は、菅原歩兵砲大隊長が20日朝、歩兵第1大隊に向かうとき、逢坂の東1キロ地点にその砲弾が落下していたといい、そのことから見て射程は一万メートルを超えるものだという。

 山沢連隊長は戦闘終結後、ソ連軍指揮官の少将に会ったとき、相手が国境を突破した部隊が先に豊原に入ったと聞き、チェッと舌打ちして残念がったのを見て、真岡上陸の部隊と国境方面から南下した部隊のどちらが先に、樺太を先に手中に納めるかを”競争意識”を持っていたようだと語っている。

 同部隊は独ソ戦に参加した部隊で、タタール人、ユダヤ人、ギリヤーク人、それにいわゆるソ連人でもシベリア地方に育った兵たちが多かったといい、ぼろ服をまとい、歩兵で武器を持たない者さえあったが、彼らは交代なしで24時間立哨できるほど鍛えられた兵でもあったという。

 以上 金子俊男著 「樺太終戦記録」より


 八重咲き宿根アスター
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 ヘレニウム(ダンゴギク)
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 ヒマワリ
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真岡・殉職した9名の乙女 [体験記]

殉職9名の乙女


 今日は金子俊男さん著の「樺太1945年夏」抜粋から
 
 宗谷海峡を見下ろす稚内の丘の上「氷雪の門」のそばに、ブレストを耳にかけた乙女のレリーフと「皆さんこれが 最後です さよなら」の文字を彫った”殉職9人の乙女の碑”がある。

 「昭和20年8月20日日本軍厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま青酸カリを飲み、最後の力を振り絞ってキーをたたき「皆さん、さようなら、さようなら、これが最後です」の言葉を残し、夢多き若い命を絶った。戦争は二度と繰り返しまず、平和の祈りを込めて、ここに乙女の霊を悼む。昭和二十八年八月十五日」と書かれている。」

  八月が来ると、紺碧の海の向こうに、樺太の島影が浮かび緑に覆われたこの丘にたたずんで、夢大き命を絶った九人の交換手を思い二度と戦争は繰り返すまいと心に誓う人たちの姿が数多く見られる。「そのたびに”ああ、あの子の死も無駄ではなかった”と思うんです」と稚内に住む可香谷シゲさんの母親は語る。

ところでこの碑文のうち「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまま青酸カリを飲み」を強く否定する人がいる。当時、彼女たちの上司、真岡郵便局長であった上田豊蔵さんだ。

 上田さんは「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかった、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持ちで最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人達を冒瀆するのも甚だしい」という。
 

 ◆ トンボ
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 ◆ テンニンギク
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 ◆ ニチニチソウ
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 ◆ ゼラニウム
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真岡町手井 [体験記]

真岡町から


 手井駅を降りて手井の学校の体育館に泊まることになった。賄いは日本人です。なかなか手配がいいなぁとおもった。
 
 ここから3日ほど市内の焼け跡整理、毎日途中波止場を通るが死人が水ぶくれになって浮かんでいる。
 
 金子氏著によると真岡町長は他の先生方とソ連兵にとらわれ、港に連行されソ連兵に撃たれた、その数10名ほどだったという。その中で町長だけが奇跡的に一命を取り留めた。

 町長は病院に入院したが町長の話によると一列に並べると、なぎ倒すような自動小銃の乱射。町長は腰を撃たれて倒れたとき、2発目が肩に当たった。ソ連兵は倒れた町長の背中に上がって、とどめの一発を撃ったが。そのまま意識を失い後の記憶がない。どのくらいたってからか、ふと町長が気づくとたおれたからだをっめたい波が洗っていた。

 この町長の話が続けると長くなるのでこの辺で皆さん想像してください。

 ムクゲ。
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 コスモス。
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 ホオズキ。
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捕虜となる [体験記]

ソ連の捕虜となる。


 8月23日とうとう、ソ連の捕虜となった。24日午後に豊原に連行されるが途中で夜になり、野宿となった。25日昼近くに師範学校寄宿舎に到着、この建物に収用された。

 賄いを日本人がやってくれたので助かりました。何日いたのか記憶がない、たぶん1週間ほどでなかったと思います。ここから逃亡するには賄いの人にお願いして私服を用意してもらうと、ここから脱走することができます。私の知人というより会社の同期が実行しました。最近なくなったのではないかと心配しています。

 この寄宿舎を出て豊原駅に、真岡に戻るという話で、無蓋貨車に乗せられ機関車二重連で引っ張りましたが、途中でこの山を登り切れず、豊原駅に逆戻りとなり、ここで又貨車の中で野宿です。
今度は前と後ろに機関車を連結して出発し、なんとか登りきり、途中の駅で機関士が今度は「トンネルの中で列車を止めたり動かしたりするので逃げたい人は逃げてください」と叫んで歩いていました。実際3名逃げたそうです。

 逢坂を過ぎて樺太西線の手井駅に到着、手井の国民学校ともう一カ所に(場所不明)2カ所に泊まる事になりました。


 ◆ シュウメイギク。
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 ◆ テンニンギク。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 X [体験記]

第25連隊長、停戦協定むすぶ。

 8月23日連隊長の停戦協定が成立。私達は連隊本部にいたので午前8時頃、武装解除を受けた。しかし私のところに来たのは18,9才の若造で、見窄らしい格好の兵で私は腕時計をとられてしまった。

 兵隊ががあちこちに散らばっているので武装解除の連絡のため連隊本部にいた将校連中がトラックに乗って停戦のため連隊本部に集合するよう呼びかけた。第1大隊本部にいた兵は早くに最初の大隊長以下4名が武装解除せずに豊原に向かった。

 明けて24日午後、豊原に・・途中で夜になって野宿する。
人数は不明だが100名ほどでなかっかと思う。


 

 フウセンカズラ。 
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 バ ラ。 
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 ヤブラン。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅷ [体験記]

 宝台ループ線上でり攻防。
 その時尖兵が、前方200メートル付近に黒い人影を発見した。ソ連軍が偵察機からの連絡で日本軍を待ち構える態勢を敷いていたのだろう。

 滝本中隊長は直ちに前進をやめて陣地につかせるとともに工兵分隊に命じて眼下のトンネルを爆破させ、第2小隊長の片山少尉に、将校斥候として出した。

 それから約30分後、片山少尉らの進んでいった方角で銃声が聞こえた。ソ連兵と遭遇したのであるソ連軍陣地の近いことがこれによって明らかにされ、やがて戻ってきた同少尉から、かなりの兵が集結していること、さらに砲陣地であることが報告され、これを通信分隊が尾坂の連帯本部に打電した一瞬、銃砲かが集中、同小隊は通信機材とともに吹き飛ばされほとんど全員が死傷した。

 この戦闘で弾薬輸送をおこなっていた住民が指揮班の近くにいたが至近弾で1人が死亡、ほかに2人が負傷した。この戦闘で住民を含めて12名と負傷者若干。

 この戦闘は約1時間後午後2時過ぎ、わが軍が射撃を中止すると、ソ連軍の銃砲声がまもなく止んだ。私は伝令に各隊は早く休むように指示した。22日午前5時30分頃であろうか、豆腐売りのラッパのようなものが一斉に鳴り出した。途端、銃砲撃が我が方めがけて猛烈に開始された。

 やがて、倒れている私を見てかけよって来た兵に起こしてもらい指揮をとった。午前中右足をやられ、また左足、その上左手までやられたとは誠に無残な姿である。前線に連絡し状況報告させる。相当の損害である。次第に22日の夕闇が迫ってくる。そのうちに私めがけて焼夷弾攻撃をかけバリバリ音を立てて付近が焼け始めた。兵達は私を笹の少ないところに移してくれた。

 付近は真っ暗になる。全員集合をかけた。ポッポッと集まってくる。互い健在であった喜びを小さい声で語り、固い握手をする。だが私は倒れたのみ。そのとき私はこれ以上生き残ることは、いたずらに部下に迷惑をかけると思い自殺する覚悟をして背中の拳銃に手をかけようとするが取れない。五十嵐曹長それを見ると私の拳銃をとって投げてしまった。

 50名ほどの生き残りがいた。各小隊長を集合させ部隊は一応戦線を整理する目的を持って宝台駅に集合することを命じた。

 (2回目の停戦交渉の軍師も射殺されたが兵がソ連軍からの連隊長が23日午前0時までに来るようにと云う書状を持ち帰った。即23日0時を持って停戦した。)


 ハナトラノオ
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 ヘレニウム
  別名:ダンゴギク。
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 オオハンゴンソウ
  別名: ルドベキア。
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