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2017年07月| 2017年08月 |- ブログトップ

樺太・逢坂歩兵第25連隊 Ⅴ [体験記]

 又、軍師が射殺される。


 熊笹峠の戦闘が混乱している22日夕刻第88師団司令部より「例え捕虜となるも即時停戦せよ」との命令。玉砕を覚悟していた山沢第25連隊長はロシア語の分かる村山主計中尉を軍師とする一方、熊笹峠の第1大隊に伝えるため連隊付きの宮下安一大尉ををだした。


 しかし、宮下大尉は途中で軍使の村山主計中尉の遺体を確認し、なお進んで高地に兵が集結していた第1大隊長に連隊の命令を伝えることができた。


 その村山軍使は22日午後8時軍使としての命を受け部下4名と武装せず大きい敷布の白旗をに掲げ同20分に出発した。

 宮下大尉は午後10時頃逢坂の近くで銃創を受けた1名の兵士に出会う。その兵士は村山軍使に従って行った兵士で、軍使はまた射殺され状況を報告のため戻る途中であった。

 村山軍使以下は逢坂の西約4キロの豊真山道のカーブの地点でソ連軍の1個小隊ほどと合い、トラックを停止させられ「武器を捨てろ」と手まねし、武器を持っていないので、下車を命じ整列した5名を右から自動小銃で不意に撃ったという。左にいたその兵士は頭に弾丸を受け倒れるふりをして谷に落ち込んで脱出した。

 
 石黒連隊副官は「村山中尉ら3名は射殺され2名が助かった。そのうちの1名はソ連軍のメモを持ってきた。それによると「午前0時、ラッパを吹かせながら連隊長自ら峠に向かってくるように」と合った。山沢連隊長は石黒副官を先頭に通訳と道路上に自動小銃の間をくぐってソ連軍の指揮官らしい中佐に会った。そして23日午前2時戦闘中止を確認、ソ連軍とともに逢坂に引き返し同7時集結中の部隊の武装解除を行った。


 宮下大尉は23日第1大隊の位置を見つけ命令を伝えた。このため同大隊は夜になって山中を逢坂に集まった。



 ◆ ムクゲ。
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 ◆ コムラサキの花。
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 ◆ プットレア。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅳ [体験記]

 20日早朝、爆音がする。真岡へのソ連軍の艦砲射撃。
 20日早朝逢坂に爆音が届く。ソ連の艦砲射撃であった。
 艦砲射撃を加えつつ真岡に上陸してきたソ連の1個旅団が、避難中の市民に無差別攻撃。市人500人以上も命を失う。街中も砲撃され焼け野原となる。

ここでも、最後まで通信に携わっていた9人の女子電話交換手が青酸カリで自殺しています。最後の通信は北海道稚内郵便電信局の交換台に言葉を残しています。詳しく知りたい方は「氷雪の門」或いは「北のひめゆり」で検索すれば多くの記事にぶつかるでしょう。 ◆ 停戦の軍使射殺される。

 ソ連軍を上陸させ、熊笹峠に後退していた第1大隊長は師団の命令で停戦のための軍使をソ連軍に派遣するが射殺される。 以下はその状況が書き残されている。

 みんなは無言、先頭は遊佐兵長の白旗。その後に整然と隊伍を組んで進む。色々なことが脳裏を去来した。荒貝沢入り口にが近づいた。そこまでの距離は実に近く感じた。酒屋があり、付近には民家がまばらにある。無論人影どころか犬1匹見えない。

 前方の様子が分からない。停止した副官は眼鏡を撮りだしてみたいたが、右手の小高い丘には何も見えない。前進、30mほど進んで鉄道踏切に差し掛かった時、突然、その丘の上にソ連兵が姿を現し、軍使の停止を求めながら近寄ってきた。

 分隊は踏切の上にいた。副官は白旗の遊佐兵長、中前軍曹、通訳の金山軍曹とともに前に進み出た。分隊との間隔10mほど。副官は通訳を通じて話している。指揮官との会見を求めたのであろう。私たちのところからは何も聞こえない。

 軍使を取り囲むようにして、10mほど手前で一旦止まったソ連軍は、銃をそこに置けと要求、村田中尉の指示で一行は道路端に叉銃すると、同行している軍犬もそばの電柱に縛るよう要求、その指示に従った。こうして武装を解いた後ソ連軍が近づいてきた。

 軍使の申し入れに対し、ソ連軍は受け入れる様子がなく、一人のソ連兵が銃を構えて立ち撃ちの姿勢をとった。副官は胸元の銃口を手で横に押しやって尚話をする。金山軍曹のが懸命の通訳をしていた。その時、先程のソ連兵が突然副官の体に銃口を向けるなり銃を乱射した。

 「伏せろ」、誰かの声で、私は副官の倒れる姿を見ながら線路脇の排水溝に飛び込んだ。ソ連兵が最初の乱射と同時に駆け集まって、自動小銃を構えて一斉に撃ち始めた。

 私は小銃をとって排水溝を30mほど走った。溝の横が小高くなっているので、ソ連兵の位置から死角になって気づかなかったのだろう。そして、更に走って小山に登り、防空壕を見つけて飛び込んだ。ところがどうだろう。現場から50mほどの壕内に逃げ遅れた住民が入っている。北の方から来た避難民であった。銃声が止むのを待って「夜になったら部隊のいる方に逃げてくるように」言い残し、夢中で本部に向かって走った。

 私は状況を報告した。仲川大隊長以下その時の顔を覚えていない。20分ほど遅れて遊佐兵長、太田上等兵が負傷し、血みどろになって帰ってきた。大隊長はこの時、初めて戦闘の腹を決めたのだろう。
 この模様を第1大隊長から25連隊長に報告し戦闘開始する。



 ◆ 紫陽花。
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 ◆ ヘリオプシス。
 キク科ヘリオプシス属。 多年草。北アメリカ原産、明治中期に渡来する。
 「ヒメヒマリ」「キクイモモドキ」の別名がある。
 非常に丈夫な植物で病害もなく日当たりの良い場所を好む。
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 ◆ ニワウメの実。
 バラ科  果実はほぼ球形、大きさは1センチ。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅲ [体験記]

 昨日はとうとう小雨が降ったりやんだりの一日でした。

 25連隊本部を逢坂国民学校に置いた。8月16日朝早く、私達fは連隊本部に到着した。翌日早速ソ連の偵察機1機からお出向かいを受けた。いきなりの機銃掃射、召集兵なのか年配の兵がタコツボに逃げたらしい、上から見たら丸見えだろうに、怪我をしたらしい。

 8月18日、我々には何の指示もない、鉄道の電話線路と電話局の電話線路を1度巡回してみるかと、分隊長の発案で、上の許可を取り、二手に分かれて豊原方面に向かって歩いた。
私は畑の縁を歩いていたとき、プロペラの音が耳に入ると同時に銃弾が土煙を上げてこの目に映った。瞬間1秒もたったか、たたないうちに目の前2メートル程手前で止まった。音のする空を見上げるとソ連の偵察機、機銃掃射の狙い撃ち、15メートル程まで低空、機関銃と1発銃じゃ話にならない。

 8月20日午前6時半頃ソ連艦船十数隻で艦砲射撃、機銃掃射などで上陸真岡市内には警察官と憲兵数名、部隊は市内の背後山手の荒貝沢に第1大隊本部を置いていたが、射撃命令下さず、停戦軍師を派遣するが、射殺される。

 
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 今日は花の写真がないので一度アップした写真です。
 カワウ。
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 サギ。
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 ハクセキレイ。
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 キタキツネ。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅱ  [体験記]

 前にも書いたが私はどこに所属しているかというと、歩兵第25連隊通信中隊だが、7月末、連隊が各地に展開したとき25連隊第3大隊に中川曹長を小隊長として配属、中隊は第1、2、3大隊、歩兵砲大隊に配属され、ばらばらになった。

 私達!個分隊(10名)は留多加郵便局で電話交換手として働いていた。夜勤があるので部屋は別棟を与えられたが、他は無線担当だろうと思う、顔を合わしたことがなかった。

 8月15日終戦の日の夜、弾丸を積んだトラック2台に分乗して逢坂に・・・、連隊本部が8月9日以降で、第1大隊主力が小能途呂から、真岡にかけての海岸線の背後に入り、連隊本部と歩兵砲大隊は逢坂に進出したのは12日であった。

 連隊本部は事務所と宿舎は逢坂小学校、電話は、最後まで局長の奥様が行っていた。一体我々は何ために逢坂みらに来たのか、なんの仕事がない。

 26日朝食を取り、名前が失念したが見習士官迎えてくれた。前述の事情を話してくれた。すぐ、見習士官と分隊長と私と3名が手井駅方面を線路を行ったが途中1キロ歩いたら。線路脇に大きな穴が見つかり、場所は線路から両脇40メートル、全長150メートルほど、伐採されて、いざというとき身を隠し場所がなく、引き返す。


 地 図。
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 ノーゼンカズラ。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 [体験記]

前回も書いたが、ソ連参戦で対米陣地構築のため、連隊本部、歩兵砲大隊を小沼に置き、第1大隊を落合に、第2大隊を西能途呂岬、第3大隊を留多加に展開した。

しかし、ソ連参戦したため歩兵第25連隊が、真岡を中心とする守備についたのは、8月9日以降で、第1大隊主力が真岡に着き、小能途呂から真岡にかけての海岸線の背後に入り、連隊本部と歩兵砲大隊は逢坂に進出したのは12日であった。

しかも、第1大隊第3中隊は恵寿取の第125連隊の応援に急派され、第10中隊は上敷香の筑紫参謀の指揮下に入り、1個連隊というものの、歩兵は約半数の兵員であった。

10日、本斗~野田に至る海岸線、ソ連から防御するために重点配置をした。しかし、11日には国境方面の戦闘が思わしくないので第1大隊の一部を残し応援するよう師団命令。

しかし、その後ウラジオストックからソ連艦隊が北上中ということで先の命令を取り消し前任務に復帰するようにとの命令で慌ただしい命令変更で右往左往したが、第1大隊は本部と主力を真岡。新貝沢に残し、各中隊しょうたいを決められた場所に配置した。

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 黄花のセイヨウノコニリソウ。 IMG_3437_1.jpg



 アガパンサス。 IMG_3435.jpg

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