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真岡・殉職した9名の乙女 [体験記]

殉職9名の乙女


 今日は金子俊男さん著の「樺太1945年夏」抜粋から
 
 宗谷海峡を見下ろす稚内の丘の上「氷雪の門」のそばに、ブレストを耳にかけた乙女のレリーフと「皆さんこれが 最後です さよなら」の文字を彫った”殉職9人の乙女の碑”がある。

 「昭和20年8月20日日本軍厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま青酸カリを飲み、最後の力を振り絞ってキーをたたき「皆さん、さようなら、さようなら、これが最後です」の言葉を残し、夢多き若い命を絶った。戦争は二度と繰り返しまず、平和の祈りを込めて、ここに乙女の霊を悼む。昭和二十八年八月十五日」と書かれている。」

  八月が来ると、紺碧の海の向こうに、樺太の島影が浮かび緑に覆われたこの丘にたたずんで、夢大き命を絶った九人の交換手を思い二度と戦争は繰り返すまいと心に誓う人たちの姿が数多く見られる。「そのたびに”ああ、あの子の死も無駄ではなかった”と思うんです」と稚内に住む可香谷シゲさんの母親は語る。

ところでこの碑文のうち「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまま青酸カリを飲み」を強く否定する人がいる。当時、彼女たちの上司、真岡郵便局長であった上田豊蔵さんだ。

 上田さんは「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかった、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持ちで最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人達を冒瀆するのも甚だしい」という。
 

 ◆ トンボ
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 ◆ テンニンギク
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 ◆ ニチニチソウ
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 ◆ ゼラニウム
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真岡町手井 [体験記]

真岡町から


 手井駅を降りて手井の学校の体育館に泊まることになった。賄いは日本人です。なかなか手配がいいなぁとおもった。
 
 ここから3日ほど市内の焼け跡整理、毎日途中波止場を通るが死人が水ぶくれになって浮かんでいる。
 
 金子氏著によると真岡町長は他の先生方とソ連兵にとらわれ、港に連行されソ連兵に撃たれた、その数10名ほどだったという。その中で町長だけが奇跡的に一命を取り留めた。

 町長は病院入院したが町長の話によると一列に並べると、なぎ倒すような自動小銃の乱射。町長は腰を撃たれて倒れたとき、2発目が肩に当たった。ソ連兵は倒れた町長の背中に上がって、とどめの一発を撃ったが。そのまま意識を失い後の記憶がない。どのくらいたってからか、ふと町長が気づくとたおれたからだをっめたい波が洗っていた。

 この町長の話が続けると長くなるのでこの辺で皆さん想像してください。

 ムクゲ。
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 コスモス
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 ホオズキ。
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捕虜となる [体験記]

ソ連の捕虜となる。


 8月23日とうとう、ソ連の捕虜となった。24日午後に豊原に連行されるが途中で夜になり、野宿となった。25日昼近くに師範学校寄宿舎に到着、この建物に収用された。

 賄いを日本人がやってくれたので助かりました。何日いたのか記憶がない、たぶん1週間ほどでなかったと思います。ここから逃亡するには賄いの人にお願いして私服を用意してもらうと、ここから脱走することができます。私の知人というより会社の同期が実行しました。最近なくなったのではないかと心配しています。

 この寄宿舎を出て豊原駅に、真岡に戻るという話で、無蓋貨車に乗せられ機関車二重連で引っ張りましたが、途中でこの山を登り切れず、豊原駅に逆戻りとなり、ここで又貨車の中で野宿です。
今度は前と後ろに機関車を連結して出発し、なんとか登りきり、途中の駅で機関士が今度は「トンネルの中で列車を止めたり動かしたりするので逃げたい人は逃げてください」と叫んで歩いていました。実際3名逃げたそうです。

 逢坂を過ぎて樺太西線の手井駅に到着、手井の国民学校ともう一カ所に(場所不明)2カ所に泊まる事になりました。


 ◆ シュウメイギク。
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 ◆ テンニンギク。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 X [体験記]

第25連隊長、停戦協定むすぶ。

 8月23日連隊長の停戦協定が成立。私達は連隊本部にいたので午前8時頃、武装解除を受けた。しかし私のところに来たのは18,9才の若造で、見窄らしい格好の兵で私は腕時計をとられてしまった。

 兵隊ががあちこちに散らばっているので武装解除の連絡のため連隊本部にいた将校連中がトラックに乗って停戦のため連隊本部に集合するよう呼びかけた。第1大隊本部にいた兵は早くに最初の大隊長以下4名が武装解除せずに豊原に向かった。

 明けて24日午後、豊原に・・途中で夜になって野宿する。
人数は不明だが100名ほどでなかっかと思う。


 

 フウセンカズラ。 
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 バ ラ。 
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 ヤブラン。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅷ [体験記]

 宝台ループ線上でり攻防。
 その時尖兵が、前方200メートル付近に黒い人影を発見した。ソ連軍が偵察機からの連絡で日本軍を待ち構える態勢を敷いていたのだろう。

 滝本中隊長は直ちに前進をやめて陣地につかせるとともに工兵分隊に命じて眼下のトンネルを爆破させ、第2小隊長の片山少尉に、将校斥候として出した。

 それから約30分後、片山少尉らの進んでいった方角で銃声が聞こえた。ソ連兵と遭遇したのであるソ連軍陣地の近いことがこれによって明らかにされ、やがて戻ってきた同少尉から、かなりの兵が集結していること、さらに砲陣地であることが報告され、これを通信分隊が尾坂の連帯本部に打電した一瞬、銃砲かが集中、同小隊は通信機材とともに吹き飛ばされほとんど全員が死傷した。

 この戦闘で弾薬輸送をおこなっていた住民が指揮班の近くにいたが至近弾で1人が死亡、ほかに2人が負傷した。この戦闘で住民を含めて12名と負傷者若干。

 この戦闘は約1時間後午後2時過ぎ、わが軍が射撃を中止すると、ソ連軍の銃砲声がまもなく止んだ。私は伝令に各隊は早く休むように指示した。22日午前5時30分頃であろうか、豆腐売りのラッパのようなものが一斉に鳴り出した。途端、銃砲撃が我が方めがけて猛烈に開始された。

 やがて、倒れている私を見てかけよって来た兵に起こしてもらい指揮をとった。午前中右足をやられ、また左足、その上左手までやられたとは誠に無残な姿である。前線に連絡し状況報告させる。相当の損害である。次第に22日の夕闇が迫ってくる。そのうちに私めがけて焼夷弾攻撃をかけバリバリ音を立てて付近が焼け始めた。兵達は私を笹の少ないところに移してくれた。

 付近は真っ暗になる。全員集合をかけた。ポッポッと集まってくる。互い健在であった喜びを小さい声で語り、固い握手をする。だが私は倒れたのみ。そのとき私はこれ以上生き残ることは、いたずらに部下に迷惑をかけると思い自殺する覚悟をして背中の拳銃に手をかけようとするが取れない。五十嵐曹長それを見ると私の拳銃をとって投げてしまった。

 50名ほどの生き残りがいた。各小隊長を集合させ部隊は一応戦線を整理する目的を持って宝台駅に集合することを命じた。

 (2回目の停戦交渉の軍師も射殺されたが兵がソ連軍からの連隊長が23日午前0時までに来るようにと云う書状を持ち帰った。即23日0時を持って停戦した。)


 ハナトラノオ
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 ヘレニウム
  別名:ダンゴギク。
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 オオハンゴンソウ
  別名: ルドベキア。
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