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留萌沖で引き揚げ船撃沈される [記事]

北海道留萌沖で樺太引揚者の乗った船がソ連潜水艦によって撃沈されている。


 ◆ 小笠原丸撃沈 
 8月20日引揚者1500名ほど乗せて大泊から稚内に、約800名ほどが降り。列車の混雑で残りは小樽へ向かう途中22日ソ連潜水艦により攻撃され、撃沈させられ638名が死亡、生存者61名。
 
 ◆ 第2新興丸大破
 この船は軍部に徴用され、12吋砲4門、25㍉機関銃3基装備されていた。宗谷海峡の機雷敷設の帰りに3400名を乗せて大泊から小樽に出航途中留萌沖で潜水艦魚雷攻撃を受け命中、潜水艦2隻が浮上攻撃されるが応戦、油が浮いていたので1隻は沈没したようだ。
この船は機関に異常がなかったので留萌港に入るが400名程が犠牲になる。
 
 ◆ 泰東丸沈没。
 同日、戦時国際法に則り白旗を掲げて航行中ソ連潜水艦によって撃沈され、667名が死亡する。



 ◆ オオケタデ。
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 ◆ ハマギク。
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 ◆ ノブドウ。
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真岡・町長奇跡の生存    [記事]

真岡町長奇跡の生存

 田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。
 
「当時、第5方面軍航空情報隊第4監視隊に所属する下士官で豊原におり、樺太南部、富内、大泊、西能登呂などに監視哨を配置、情報収集に当たっていた。真岡からは刻々、戦闘状況が入ってきたが、やがて、混乱状態になり姉妹隊である真岡監視隊も撤退するという連絡を受けた。その後ぷつりと真岡の情報が止まった。どうもおかしいというので竹井隊長の命を受け駅前の豊原郵便局二階の逓信局に駆け込んだ。

 薄くらい業務課の片隅に、ただ一人、国防服に巻き脚絆をつけた伊賀業務課長腕を固く組んで、沈痛な面持ちで座っていたが、申し訳ない事態になりました、最後の連絡を話してくれました。実は、今朝真岡の交換手が自決しました、といって最後の連絡を話してくれた。同課長はその後、戦犯でシベリア送りとなり、凍り付いたシベリアの土となったと聞いたが、あのときの苦悩する姿が忘れられない。

 真岡町長の高橋勝治郎さんはソ連兵にとらわれ、真岡高女の西尾誠先生らとともに港に連行され、ソ連兵に撃たれた。一緒に撃たれたのは10人ほどだったと云うが、その中で高橋町長だけが奇跡的に一命を取りとめている。

 道下さんは本古舟漁業上田政の時化之助さんに後日聞いたこととして次のように書いている。
「九月初旬、近くの幌泊海岸に巡査部長の制服をつけた死体と背広の死体が漂着、死体処理のため蘭泊村役場の人が現地に駆けつけ、その氏名を確認した上、付近の高台に埋葬した。警官は支庁警務課会計係今﨑巡査部長、背広の人は西尾先生で、、二人とも銃創があった。また、少し北の楽磨海岸にも死体が漂着調べた結果、同じく警務課の福田武雄巡査と確認された。上田さんと別れ、役場で死体処理に当たった吏員に会ってそのことを確かめた」

 道下さんの記述から見ると、この人たちが高橋町長と同じように撃たれたのであろう。
 町長は20日朝、藤岡助役、長男英一さん、それに第一国民学校の八木橋亀太郎教頭らとともに、同校に集めたご真影を、総合グラウンドのタコツボで焼却していた。英一さんは、母たちがすでに疎開した後で山手町の官舎に父の町長と二人で生活しており、この朝父に従って焼却を手伝っていた。ソ連軍の砲撃はそのとき始まった。

 高橋町長は、藤岡助役や息子の英一さんらを逃した後、第一国民学校内の仮の町役場に入っていた。そこにどかどかとソ連兵が侵入、取り調べをした。英語で「私は町長だ」繰り返したがソ連兵には通じない。そしてソ連兵が何をいっているのか皆目見当が付かないうちに北浜町の岸壁に連行された。一列に並べられるとなぎ倒すような自動小銃の乱射、町長は腰を撃たれて倒れたとき、二発目が肩に当たった。ソ連兵は倒れた町長の背中に上がって、さらにとどめの一発を撃ったが、そのまま意識を失い記憶がない。

 どのくらいたったのか、ふと町長が気づくと倒れた体を冷たい波が洗っていた。どうやら付近の破船の陰に三日二晩、じっと身を潜めていたそして22日夜少し離れた小山田さんの家にはってたどり着き空腹にがぶかぶ水を飲んだ。

 最初に町長を発見したのは工藤キセさんだった。

 私達も逢坂ー豊原ー真岡と移動し真岡の焼け跡整理の手伝いをするに3日程通ったとき、波止場には水ぶくれになった死体が、4体ほど浮かんでありました。また真岡の南の手井駅から1キロほど山の方に死体が一体、腐敗臭を発して、ありました。話が変わるがいよいよシベリアに・・・


 コルチカム。
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 シュウメイギク。
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 ススキ。
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真岡・絶望の逃避行 ②  [記事]

 絶望の逃避行  

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。 
  前回の続きです。
 重いリュックを担いでみたものの、妻を背負って逃げる場合を考え、諦めると、裏口の防火用バケツそれぞれ頭をかぶりながら、官舎を飛び出すとジャガイモ畑を一気に走った。

 起伏する丘を私達は稜線目指して走った。霧が薄らいで朝の太陽に光る芋の葉の露、紫の白の花、ブスッブスッと弾丸が足下に刺さり、頭上をかすめる。私達が狙撃されているような恐怖、妻は10歩走って「もう、駄目」とあえぎ、5歩走っては倒れる。そのつど私は駆け戻って、叱りつけ、妻の手を引っ張っては走り、朝露に濡れた土に伏せ、また走る。長い時間のように感じたが30分も走ったのであろうか。私達はバケツをかぶった異様な姿で、稜線の陰に体を投げ込むように駆け込んだ。

 そのうちにこの山陰にあちこちから人々が逃げてくる。顔見知りの憲兵もいる。稜線からのぞくと、霧の中で町の数カ所から大きい黒煙が上っている。建物の陰になって埠頭は見えないが、あちこちでアリのように活発に動いている。おびたたしい人、ソ連兵は完全に上陸したのであろう。

 沖合には軍艦らしいものが、白い霧を通してふたつみっつち見える。黒煙はみるみる赤い炎とって天を焦がす。稜線めがけて弾丸は激しい。

 妻をうながして、真岡沢に向かう。山陰から、真岡沢の入り口から、続々町の人たちが逃げてくる。沢に入ったので機銃弾は飛んでこなくなったが、砲声はますます盛んになった。真岡沢から林道に上る決心をして、妻を引っ張るように進み、沢の苗圃の事務所に着いた。管理人はいち早く逃げ出したらしい。勝手知った台所に入ると飯を炊いたばかりの釜が空っぽで放ってある。畳に靴の跡、後から来た避難民が、ごっそり頂戴していったらしい。

 私達は朝飯前だったし、これから先の林道のことを考え、まず食料と飲み水を用意するべく一反風呂敷と米、干し魚を無断借用、裏口に回って、コンコンとあふれるわき水腹一杯飲んで、一升瓶にも詰めた。

 これだけではまだ不安なので、荒縄を持って、鶏小屋に入った。しかし、鶏は騒ぎ立て、逃げ回ってなかなか捕まえることができない。その代わり、産みたての卵が二つ、逃げ出した巣箱にあったので、一つずつご馳走になった。これが2月20日の朝食であった。
 
 苗圃のそばを次々に通っていく避難民の中に、私の係の女子職員がいた。私は転がっている一升瓶に水を入れて持って行くように進めた。事務所を出て暫く行くと、沢の奥の原っぱに数百人の人たちが集まっていた。裸足の男、布団に老人を包んで担いできた中年の男、小さい子供の手を引いて不安そうな表情の婦人、中にリュックやトランクを持った人もいたが、殆どは着の身着のままである。

 「林務の者はいないか」大声で叫んでいる。近づいてみると日影舘支庁長である。私を見ると豊真山道の合流点まで案内せよという。私は妻がこの通り病人なので先頭に立って案内はできないが--といって、支庁長ら主だった人たちに、避難道を詳しく知らせた。

つづく。


 津軽海峡函館湾
 右上の黒く見える山が函館山。
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 函館湾に入ってきました。
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 画面中央の黒い線が見えますが防波堤です。
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 フェリー埠頭
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真岡・絶望の逃避行 ① [記事]

 絶望の逃避行

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。
 死の恐怖におびえながら、町にとどまって人たちとは別に、不気味な砲声に追われるように豊真山道(豊原ー真岡の道路)などを逃げた人々もまた死に勝る苦労をしたのである。避難民の数は15,000とも18,000人とも言われた。真岡から豊原方面に抜ける豊真山道の入り口は、町の北の外れにあったため、昭和18年、真岡林務署が、南の金田の沢から入って逢坂に抜ける”避難道路”をつけたいた。西村宗信(元真岡林務署林産航空油主任)は、「私が造林主任だった昭和18年、細越業務課長の発案で、敵が上陸したときに備える避難林道を造った。初め真岡沢を起点にしようかと思ったが、急峻なため金田の沢に変更した。幅1.2メートル、延長15キロ、道はつけたものの、翌年からは維持費がつかずあれるに任せ、私自身も忘れていたが、真岡最後の日に思い出した。

 使用されたのはわずか一日だけであったが、数千の人たちの生命がこの避難林道によって救われたことの喜びと悲しみ、私は生涯忘れることができない、20年たった今、あの林道は白樺やとど松が密生し、もはや熊も通る路もないであろうが・・・・」と語っている。
 西村さん自身もこの道を避難したのである。西村さんは避難林道を逃げたときの状況を次のように語っている。

 バリバリと脳天がさけるばかりであった。空襲ーー私は、直感的に妻を引っ張るように前の防空壕に前の防空壕に飛び込んだ。10秒、20秒壕の中で私は不安に襲われ、妻の制止も聞かず、顔を出してみると、海からも銃砲声、壕がときおりズシーンと揺れる。しかし、天地を引き裂くような銃砲声の中で、この南浜町は道路にも官舎街にも人影一つ見えず、不気味なほど静まり帰っている。

 みんな私達だけ残して、逃げ去ってしまったのだろうか。今ソ連兵がやってきたら身を守る小刀とてない---逃げよう。妻は手術を受けて退院したばかりで、歩行さえ思うようにならないが、このままでは必ず殺される。よし、逃げられるだけは山に逃げよう。私は無理矢理妻をせき立てて、官舎に戻り、新しいもんぺ、地下足袋をつけさせた。
    
つづく。


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ソ連軍、停戦後の豊原空襲 [記事]

停戦後の豊原空襲


 22日、知取において停戦交渉が成立「捕虜となるも即時停戦せよ」との師団命令が各部隊に出されたが、同日午後、豊原市はソ連機の空襲を受け、緊急疎開のため豊原駅前広場に集まっていた老人、婦人、子供たちの中から多くの犠牲者が出た。停戦交渉成立後二時間以上経過の惨事である。

 ソ連機による南部地区への空襲は豊原空襲以前には、前日の21日午後、内淵の人造石油工場を空襲した八機が落合町を空襲した。

 北海道庁に戦後、引き揚げ者がもたらした報告として残っている資料では内淵の人造石油工場で死者3人、落合駅付近と映画劇場付近で約60人の死者があったという。

 「21日、私達は駅前にテントを張り、婦女子の疎開の事務をやっていたと、内淵方面で落雷のような音がして怪訝そうにみんなが語り合っていると、まもなくソ連機が低空で突っ込んできた。駅が目標と判断した私達は駅前に集まっていた大勢の人たちに「『近くの防空壕に避難するのだ』」と叫び、私自身飛び込んだ瞬間、ものすごい振動で、壁に体をいやと云うほど打ち付けられた。死者数は把握していないが相当な数であった」。

 終戦になると市役所の斡旋で、白布を集めて白旗を作った。豊原の駅舎の屋根や周辺の建物の屋上等に掲げ、無抵抗であることを示した。

 一方、疎開列車は東海岸線を奥地からやってくる列車のほか真岡方面からのものもあって大泊駅が大混乱、20日には残客が大勢出たので市内で宿泊、配船を待っている。

 21日分の収容力が、全くないから列車は豊原で打ち切って収容して欲しと大泊駅長からの要求があった。しかし、真岡方面からの260人を乗せた列車が入って午前10時には発車することになっており、続いて正午には敷香方面からの列車が入ってくることになっており、さらに構内の仕分け線は貨車が満杯で、やむなく真岡からの列車は発車させた。

 そして380人を乗せた次の列車ちょっと遅れて午後零時15分遅れて豊原駅に滑り込んできた。乗客下車させて駅前広場に誘導、市職員が町村ごとに宿舎を割り当てた。

 そのとき駅員が「敵機襲来」と叫んだ。ソ連機が2機駅の広場にいた避難民に機銃掃射や爆弾を落としていった。北海道庁の資料に死者108人とある。

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