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大沼公園から [植物]

 ご無沙汰しています。
 今年はどこにも出かけていないものですから、3年前の大沼公園の5月頃の公園の植物です。 同じものが入っていると思いますがよろしくお願いします。


O オオウバユリ
 ユリ科、ウバユリ属。
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O マイヅル草の実
 ユリ科マイヅルソウ属
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O エゾイチヤクソウ
 イチヤクソウ科イチヤクソウ属。
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O イワガラミ
 ユキノシタ科イワガラミ属 IMG_4672.jpg


.O トゲナシヤエムグラ
 アカネ科ヤエムグラ属、茎は四角でとげがありません。葉は4~8枚、花は4l輪し4ミリほど。
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O オオマルハノホロシ。  ナス科 別名:オゼナス
 小さな5弁の紫色のナスのような花をつけ、緑から茶色、赤色へと変わり、
 ミニトマトに似た実をつけるが食べられません。
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O 大沼湖。
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O 駒ヶ岳。
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O カラスと鳶?の格闘。
 動画なら面白かったのですが、上がカラスでいつもやっています。
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タグ:大沼公園
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椿とアンスリウム [花]

椿とアンスリウム

 今年は雪があまり降らないのかなと思っていたら、どっと降り、除雪で一苦労しました。市内を少し歩きたいと思っていますが、車も乗られないし、あきらめムードです。  今日は3年ほど前に五稜郭公園に咲いていた椿を再度掲載させていただきます。名前はわかりませんのでご了承ください。

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 下の花はアンスリウムです。

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尼港事件その 2 [記事]

 尼港は沿海州最北端、アムール河口に位置する港湾都市で、日本人が早くから移り住んで漁業関係の事業に従事していた。日本軍がここを占領したとき、日本人の人口は軍・民合計で八百人前後だった。

 1920 年1 月、共同出兵していたアメリカが単独撤退を発表すると、シベリアの情勢が激変した。アメリカ軍亡き後の主力は日本軍だけであり、しかもほぼ時期を一にしてコルチャック政権が消滅したため、シベリアの革命派は一気に勢力を増し、攻勢をかけてきたのである。このため、反革命派を支援していた日本軍は危機にさらされた。

 革命派はウラジボストーク、ハバロフスクなどの拠点にじわじわと勢力を浸透させ、アムール河口の尼港にも触手を伸ばしてきた。トリャピーツィンの指揮する四千人のパルチザン部隊が、尼港を包囲したのは同月末のことだった。この部隊にはロシア人のほかに、多数の中国人、朝鮮人が含まれていた。

 彼らは包囲に先立って、ハバロフスクと尼港を結ぶ電線を破壊したため、外部との通信は無線による以外は不可能となった。更にまた酷寒のシベリアは、11ー5 月までアムール川と河口の港湾が凍結する。したがってこの間、尼港は艦船で近づくことができず、外部から遮断された、全くの陸の孤島と化してしまうのである。

 包囲された状況での戦闘で日本軍は善戦したが、四百人の兵力では四千人の敵軍かなうはずもなく、翌二月末になって「日本人居留民に危害を加えない。ロシア人、一般市民の生命財産を保証する」を条件に講和、開城を受け入れたのである。更にまた「日本軍と作戦行動を共にした、ロシア人白軍兵士の生命の安全を保証する」という条件で彼らの武装解除も承認した。

 だが開城後乗り込んできた赤軍パルチザンは、たちまちその本性をむき出しにした。武装解除された白軍兵士を片っ端から殺戮し、ロシア人資産家の屋敷を襲って殺人・暴行・強盗・強姦の限りを尽くし、はては日本軍の武器の引き渡しを命じてきたのである。事ここに至って日本軍も反撃の戦いを開始したかが、もはや手遅れだった。三月中旬酸鼻を市街戦が始まり、八百人の日本人の大半がこの時殺された。赤軍パルチザンの中でも最も残虐行為を行ったのは、中国人と朝鮮人の兵士だったという。

 もし日本軍が白軍兵士の武装解除認めず、彼らとともに武器をとって徹底抗戦していれば、赤軍パルチザンは膨大な犠牲を出していただろう。白軍の幹部は「赤軍は約束したことを破るなど屁とも思っていない。彼らは必ず我々を裏切って皆殺しにしてくるだろう」と最後まで武装解除に抵抗した。さすがに彼らはロシア革命後数年間にわたる赤白内戦の嵐の中で、共産軍兵士たちの非人間的な残虐ぶりを、骨の髄まで思い知らされていたのである。この白軍幹部は開城直前に、日本軍に対してそれまでの援助と協力を謝し自決して果てた。

 五月に入り、アムール川結氷も解け、港を閉ざしていた流氷も去り、音信不通となっていた陸の孤島尼港に、ようやく救援の手が差し伸べられようとしてきた。このころには尼港の情報はある程度日本にも伝わっていたから、ハバロフスクの日本軍第十四師団主力がアムール川沿いに、さらにまた日本本国からも休出の艦船が、尼港目指して向かった。

 この動きを察知するや、トリャピーツィン指揮下のパルチザンは尼港脱出を決め、その直前に、生き残った市民に対する最後の大殺戮を決行したのである。三月の殺戮をかろうじて生き延びたわずか百数十人の日本人は、負傷者や病人を含めてすべて市内の収容所に収監されていた。彼らは五月二十四日、全員アムール川の岸辺に連行されてそこで虐殺されたのである。

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 上の地図右側にある「ソビエツカヤ・ガバニ」という都市の20キロほど北に、「ワニノ」という港がありますが私たちはこの港に上陸しました。築港には鉄道線路が2本ありました。新しく「サハリン」の連絡船の岸壁は別に作ったようです。

 この港から貨車で捕虜として北に向かったがどこに住んでいたか、いくら地図を見てもわかりません。とにかく鉄道線路に砂利入れて線路を固めたものです。この線路はアムール川の鉄橋を渡ってバム鉄道(シベリア第二鉄道)につながっています。場所は「コンソモリスク・ナ・アムーレ」の町の近くの小さな駅近くで接続しています。当時は貨車を積んだ船がかわを往復して冬になると氷が張るので交通途絶になっていました。


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尼港事件その1 [記事]

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


 尼港事件とは何か・・・

今から九十六年前の大正九年、ロシア革命のときのお話です。 (雑誌「別冊正論25」東京国際大学教授堀江雄三氏著)「赤軍の大規模虐殺と尼港事件が現在に投げかける教訓」の本題をここに乗せました。
 私は樺太に住んでいましたが、この話は小学六年生ころ耳にしました。

 ロシア極東のニコライエフスク港 (以下尼港と表記する) で軍人を含めた七百数十名の日本人居留民、ロシア革命直後の赤軍パルチザンによって惨殺された事件である。氏名の把握できている最低限の数字であり、実際はこれより遥かに多くの日本人が犠牲になったものと思われる。ロシア革命後の共産ソ連の恐怖の実態を、われわれ日本人に想起させる事件として語り継がれてきた。それではこの事件が起きた当時の背景と世界情勢を眺めてみよう。
 
  第一次世界大戦の最中、1917年3月に起きたロシア革命でロマノフ王朝が倒れ、西欧型の近代的ブルジョア資本主義を標榜する政権が成立したものの、わずか八か月後の11月にレーニン率いるボルシェビキ政権にとって代われた。すなわち共産主義の国家が誕生したのである。だがあの広大なロシアの大地の隅々にまでソビエト政権による支配を確立するのは容易なことでなく,各地に反革命勢力が結集して独自の政権を打ち立て、連携しながら中には帝政ロシアの復活を夢見る者もいた。

 連合国は当初、革命後のロシア領内に取り残されたチェコ軍救出の名目で、日米を主力に日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の軍隊がシベリア共同出兵した。日本軍は大正7年8月、ウラジボストーク上陸占領後、わずか一か月で沿海州全域及び鉄道沿線地帯を占領しバイカル湖南端のイルクーツクにまで達した。しかし11月、ドイツが降伏して大戦が終わると、シベリア出兵の名目は、チェコ軍救出から反革命政権の援助へと変化していった。

 反革命勢力で最大のものは、西シベアのオムスクを拠点とするコルチャック政権であった。連合国はこれを支援したため、一時は相当な勢力を誇ったが、革命後の赤白内戦で次第に追い詰められ1919 年11 月ついにオムスクを捨て、極東太平洋岸のウラジボストーク目指して、逃亡の旅路についたのである。

 時あたかも冬の最中で、ようやくバイカル湖にたどり着いたのは年が明けて厳寒の2 月、バイカル湖は一面に分厚い氷が張り詰めており、氷点下60 度の大寒気が襲いかかって全員湖上で凍死してしまい、コルチャック政権は完全に消滅し、ボルシェビキ政権の支配の揺るぎがたいものになると、出兵していた国々は見切りをつけ、シベリアから撤退を始めた。その矢先に起きた尼港事件だったのである。

 次回に続きます。 

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