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樺太・宝台ルーフ線上の攻防 1 [記事]

去年の膀胱がんで入院で半年の間に麻酔と手術をやったのでか、すっかり体が弱ってしまいました。最も歳も92歳だが・・・


(樺太終戦記録・金子俊男著)から
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 昭和20年7月末、留多加町に展開した第3大隊中川通信小隊、私たち通信分隊も配属された。8月15日夜9時過ぎに弾薬を積んだトラック3台に分乗し逢坂の連隊本部に到着、連隊本部配属となる。

 樺太でのソ連との戦いで真岡地区に上陸したソ連軍は豊真山道の荒貝沢、熊笹峠を突破して東に向かっていた頃、真岡町手井に上陸した500~600名のソ連海兵隊もまた豊真山道と平行する鉄道の豊真線上を進んできた。同線上を敵が上陸してくることは予測されていた。

 豊真線は豊原、真岡を結ぶ東海岸と西海岸を結ぶ唯一の鉄道、真岡側からは、深い谷底をきた列車が、沼ノ端駅を過ぎて、螺旋状に山を登る(ループ線)線路、たった今通過した地点が足下になる。列車はこうして高度を高めて樺太山脈の山懐を進んでゆく、殆ど切り立った山の懐を行く鉄道である。

 予測したとおり、豊真線上を21日未明に進んで来ていることが避難して来る人や鉄道員の電話で逢坂の歩兵第25連隊本部に知らされた。

 アニワ湾の多蘭内や池月飛行場警備を放棄し、小沼集結のため留多香にに出て、そこで逢坂急進の命(20日午後11時)を受けた第3大隊第11中隊は明けて午前4時少し前、連隊本部に到着直ちにループ線のある宝台駅付近での迎撃の命を受けた。

 同中隊には第3歩兵砲小隊、第3機関銃中隊の一個小隊が逢坂から配属された。
トラックを捨てて線路上を宝台駅まで約4キロ、この間中隊は執拗にミグ戦闘機の機銃掃射を浴びた。ようやく宝台駅を過ぎて午前11時過ぎにループ線を俯瞰する地点まで進出した。
 
 その時ソ連軍が日本軍を待ち構える体制を敷いていたに違いないだろう。滝本中隊長は直ちに前進をやめて陣地構築、工兵分隊に命じて眼下のトンネルを爆破させるべく、片山第2小隊長を将校斥候としてだした。それから30分後進んでいった方向で銃声が聞こえた。ソ連兵と遭遇したのである。

 やがて戻ってきた同少尉からかなり兵の集結と砲陣地であることが分かり、これを、逢坂の連隊本部に打電した一瞬重砲火が集中、通信小隊が機材とともに吹き飛ばされ、全員が死傷した。

 一方、この間、藤田第3大隊長が連隊砲中隊長以下と11中隊の後を追って宝台駅に着き、宝台駅を第3大隊本部とした。
ループ線を挟んでその後ソ連と戦闘が続桁が大隊長が負傷し、11中隊長も重傷敵はすでにループ線の中間まで攻めてきていた。

 面白いことにソ連兵は夜になると戦闘はしない。線路脇のソ連軍の弾薬が山と積まれた処に火をつけていたがすでに、4,50名の生き残りを、戦線を整理するつもりで宝台駅に集合させ、夜になってソ連軍が引き上げたのか敵は最後まで姿を現さなかった。  つづく。 

 我が家の福寿草
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尼港事件 2 [記事]

 前回の続き・・・
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 私が樺太在住中にこの尼港事件を聞かされていた。日本人だけではない、市内のロシア人もポーランド人、イギリス人も、ユダヤ人も国籍を問わず惨殺と略奪の対象になった。赤軍バルチザンの中で最も残酷な行為を行ったのは、中国人と朝鮮人の兵士だったという。

 街の監獄と軍の留置所では、投獄されていた160人のうち、生き残ったのはたった四人のみ。バルチザンは縦断を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、死体は街のゴミ捨て場に捨てられるかあるいはアムール川の氷の中に投げ捨てられた

 5月になって雪が溶けるとハバロフスクの日本軍14師団の主力がアムール川沿いを、さらにまた本国から救援の艦船が尼港目指して向かったその動きを察知したバルチザンは退却する前に女性を片足ずつ縛り、その端を馬に縛り付け股裂きを(これは私が樺太在中に聞いた話、どこまで本当かはわかりません)

 現状では損害賠償をとるにも正式な政府があるようでないので政府は北樺太を賠償保証のため部隊を進駐させた。日ソの国交が結ばれるまで5年間も続いた。


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尼港事件 [記事]

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 尼港事件とは何か。。大正9年にロシア極東のニコライエフスク港で起きた軍人も含めた七百数十人の日本人居留民が、ロシア革命直後の赤軍バルチザンによって惨殺された事件です。

 第一次世界大戦の最中、1917年3月に起きたロシア革命でロマノフ王朝が倒れ、西欧型の近代的ブルジョア資本主義を標榜する政権ができたものの、わずか8ヶ月後の11月にレーニン率いるボルシェビキ政権に取って代わる・・すなわち共産主義国家の誕生である。

 だがあの広いロシアの大地の隅々までソビエト政権が支配することは容易なことでなく、各地に反革命勢力が結集して独自に政権を打ち立て、連体しながらレーニン政権に立ち向かった。

 革命後のロシア領内に取り残されたチェコ軍救出のため日米を主力にイギリスフランスイタリアカナダ中国の軍隊がシベリアに共同出兵した。

 
 ボルシェビキ政権の支配がゆるぎないものになると出兵してきた国々は見切りをつけシベリアから撤退をはじめた。この矢先に起きたのが尼港事件である。

 尼港の街には人口1万2千人ほど、日本人の軍・民併せて八百人ほど。
 共同出兵していたアメリカが単独撤退したため、シベリアの革命軍は一気に勢力を増し攻勢をかけてきた。トリャピーツインの指揮する4千名のバルチザン部隊が尼港を包囲したのは1月末である。この部隊にはロシア人のほか多数の中国人、朝鮮人が含まれていた。

 包囲された状況での戦闘で日本軍が善戦したが、4百人の兵力では4千人敵軍にはかなうはずがない。「日本人の居留民に危害を加えない日本軍に攻撃的態度をとらない。一般市民を財産を保証する」の条件開城受け入れたが、武装解除白軍兵士を片っ端から殺戮しロシア人の資産家の屋敷を襲って殺人・暴行・強盗・強姦のかぎりをつくした。、「つづく」。

コクガン  記事に関係なし。 
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終 戦 Ⅺ [記事]

今年の北海道はは台風の当たり年です。台風被害2400億円超だそうでびっくりしました。

-北海道内、過去最大規模だそうで橋の崩落や道路土木施設被害が1101億円とか。

鉄道も未だ完全復旧していないので貨物は船で運ぶそうです。

今日は私たちの終戦は8月23日。



 武装解除。
 歩兵第25連隊の停戦は8月23日です。第1大隊の兵士たちが夕方に集合できたので遅くなりました。
 
 ヤルタ会談ではソ連のスターリン、イギリスのチャーチル、米国のルーズベルトが戦後処理について話し合い、トルーマンはスターリンに南樺太、千島列島をソ連領とすることで参戦を促した。しかし、スターリンは満州の鉄道、大連国有化、北海道の北半分(留萌ー釧路)を要求した。しかし、ルーズベルトは認めなかった。

 ポツダム宣言にはルーズベルト、チャーチル、中国の蒋介石での「無条件降伏」を宣言した。しかし、ソ連はこのポツダム宣言にはスターリンは署名していません。

 
 翌24日豊原に向け出発途中野宿して、25日に到着した。宿舎は師範学校寄宿舎。賄いは日本人ですのでここで3名ほど逃げています。

 ここに1週間ほどいたと思っていましたが、列車でまだ真岡に逆戻り、しかし機関車2重連で引っ張りましたが引っ張りきれず、また、豊原に逆戻り、駅構内で一晩野宿、今度は機関車前後ろに1台ずつで引っ張り、ようやく真岡の手前の樺太西線の接続地点の手井駅で降り、何カ所かに分かれて1週間ほど毎日真岡市内の焼け跡整理をして、日本に返すと嘘の説明。

 毎日港にには日本人かソ連人か水ぶくれになって5体ほど浮かんでいるところを通った。

 話が前後になるが、真岡に戻る途中の駅で機関士がこの次のトンネルの中で列車を止めるから逃げたいものは逃げろと話してくれた。

 
長い間くだらない記事を読んでいただき有り難うございました。



  サンビダリア
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 リスマキア。
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 アメリカアジサイ(アナベル)
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 エキナケア。
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終 戦 Ⅹ [記事]

8日も午後から時々雨、よくまあ、雨が降りますね。

終戦Ⅹです。またまた軍使が射殺される。


 連隊から軍使を出すがまた射殺される。
 熊笹峠の戦闘が混乱している22日夕刻第88師団司令部より「例え捕虜となるも即時停戦せよ」との命令。玉砕を覚悟していた山沢25連隊長はロシア語の分かる村山主計中尉を派遣する一方、熊笹峠の第1大隊に伝えるため連隊付き宮下安一大尉ををだした。

 しかし、宮下大尉は途中で軍使の村山主計中尉の遺体を確認した、なお進んで高地に兵が集結していた菅原大隊長に連隊の命令を伝えることができた。

 その村山軍使は22日午後8時軍使としての命を受け部下4名と武装せず大きい敷布の白旗をトラックに掲げ同20分に出発した。
 宮下大尉は午後10時頃逢坂の近くで銃創を受けた1名の兵士に出会う。その兵士は村山軍使に従って行った兵士で、軍使はまた射殺され状況を報告のため戻る途中であった。

 村山軍使以下は逢坂の西約4キロの豊真山道のカーブの地点でソ連軍の1個小隊ほどと合い、トラックを停止させ「武器を捨てろ」と手まねし、武器を持っていないので、下車を命じ整列した5名を右から自動小銃で不意に撃ったという。左にいたその兵士は頭に弾丸を受け倒れるふりをして谷に落ち込んで脱出した。
 
 石黒連隊副官は「村山中尉ら3名は射殺され2名が助かった。そのうちの1名はソ連軍のメモを持ってきた。それによると「午前0時、ラッパを吹かせながら連隊長自ら峠に向かってくるように」と合った。山沢連隊長は石黒副官を先頭に通訳と道路上に自動小銃の間をくぐってソ連軍の指揮官らしい中佐に会った。そして23日午前2時戦闘中止を確認、ソ連軍とともに逢坂に引き返し同7時集結中の部隊の武装解除を行った。

 宮下大尉は23日第1大隊の位置を見つけ命令を伝えた。このため同大隊は夜になって山中を逢坂に向かった。


 宝台ループ線上の攻防。
 写真は鉄道の宝台ループ線。(webより借用)
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 真岡に上陸したソ連軍は豊真山道の荒貝沢、熊笹峠を突破して東に向かっていた頃、真岡町手井に上陸した500~600名のソ連海兵隊もまた豊真山道と平行する鉄道の豊真線上を進んできた。同線上を敵が上陸してくることは予測されていた。

 豊真線は豊原、真岡を結ぶ東海岸と西海岸を結ぶ唯一の鉄道、真岡側からは、深い谷底をきた列車が、沼ノ端駅を過ぎて螺旋状に山を登る(ループ線)線路だった。たった今通過した地点が足下になる。列車はこうして高度を高めて樺太山脈の山懐を進んでゆく、殆ど切り立った山の懐を行く鉄道である。(現在は久春内~真縫に切り替えた)

 予測したとおり、豊真線上を21日未明に進んできていることが避難してくる人や鉄道員の電話で逢坂の歩兵25連隊本部に知らされた。

 20日午後11時逢坂急進の命を受けた第3大隊第11中隊は開けて午前4時少し前、連隊本部に到着、直ちにループ線のある宝台駅での迎撃の命を受けた。
 同中隊には第3歩兵砲小隊、第3機関銃中隊の1個小隊、通信分隊が逢坂から配属された。トラックを捨てて線路上を宝台駅まで約4キロ、この間執拗にミグ戦闘機の機銃掃射を浴びた。ようやく宝台駅を過ぎ午前11時過ぎにループ線を俯瞰する地点まで進出した。

 その時ソ連軍は日本軍を待ち構える体制を敷いていたに違いないだろう。滝本中隊長は直ちに前進をやめて陣地構築、工兵分隊にに命じて眼下のトンネルを爆破させるべく、片山第2小隊長を将校斥候として出した。それから30分後進んでいった方向で銃声が聞こえた。ソ連兵と遭遇したのである。やがて戻ってきた同少尉からかなり兵の集結と砲陣地があることが分かり、これを連隊本部に打電した一瞬重砲火が集中、通信分隊が機材とともに吹き飛ばされ、全員が死傷した。

 一方、この間、藤田第3大隊長が連隊砲中隊長以下と第11中隊の後を追って宝台駅に到着、宝台駅を第3大隊本部とした。
 ループ線を挟んでその後ソ連と先頭が続行、大隊長が負傷し、第11中隊長も重傷、敵はすでにループ線の中間まで攻めてきていた。面白いことにソ連兵は夜になると戦闘はしない。
 線路脇のソ連軍の弾薬が山と積まれたところに火をつけていたが既に、40~50名の生き残りを、戦線の整理をするつもり宝台駅に集合させた。

 真岡での民間人の死亡者は約500名、軍人は約100名とか。

 アスパラの実。
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 キバナコスモス。
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 コスモス。
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 野ブドウの実。
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 ルコウソウ。
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 ひまわり。
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終 戦 Ⅸ [記事]

5日の夕方から6日のお昼に、ようやく雨がやんだ。

じめじめとして梅雨時の雨は厭ですね。北海道にも蝦夷梅雨というのがあるそうです。

今日も前回の続きです。


 歩兵25連隊第1大隊のその後。
 第1大隊が出した停戦交渉の軍使が射殺したソ連軍は、豊真山道とその両側の山から攻撃を加えてきた。その兵力は混成1個旅団と推定される。

 軍使が射殺された後暫くして、豊真山道上のほか真岡の裏山の殆ど前面に向かって散会して、荒貝沢に向かって行動を起こした。仲川大隊長はここに至って停戦の余地がないことを知り陣地死守を命じた。

 山道上の第一の橋を爆破に失敗し、第二の橋をようやく爆破に成功した。その夜は攻撃はなかったが、あけて21日朝になってソ連軍は攻撃を本格化した。ソ連軍砲陣地から砲弾が炊事幕舎のそばに着弾しはじめ、その後、続けざまに爆弾が炸裂、大隊長や大隊本部要員が頭から土砂をかぶり、急遽本部を退避、その頃から大隊本部との連絡が取れなくなり、各中隊、小隊は熊笹峠に後退して戦闘に参加したが、南に行った隊は停戦を知って山を下ったようである。

 仲川大隊長以下、大隊要員は道に迷い樺太山脈を越え、ようやく連隊本部と連絡が取れたときは24日、ソ連による部隊の武装解除の後だった。連隊長はそのまま、私服に着替えて豊原に向かうよう指示した。

 熊笹峠に後退した隊は連隊長の指示で菅原連隊砲大隊長を第1大隊長として指揮するが敵の激しい攻撃のため逢坂北方高地に後退、ここで一線を画すべく陣地を築いていたがソ連軍は陣地を目向きもせず、熊笹峠─逢坂の12キロの中間まで進出してきており、成否は誰も予測がつかない。

次回に



エゾノコリンゴ。
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 ナナカマドの実る
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 ヤマナシの実。
 今年は大きな木に一つか二つよりついていないようです。」
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 エノコログサ。
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 ヒメジョオン。
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終 戦 Ⅷ [記事]

30日夕方から31日朝方までにかけて台風10号が暴れていきました。

うちは被害がないけれどわが家の裏にある学校のグラウンドの防壁に使っている

金網の上に張ってある編み目の細い網が剥がれて地面に落ちてしまっていた。


 軍使射殺される。
 停戦する準備を整えていた荒貝沢の第1大隊本部は、師団からの命令で(前回も書いたが)18日には約一割の古年次兵が除隊させる。

 連隊長は仲川第1大隊長に対して師団の従前からの指示に基づき速やかに停戦の軍使を派遣することを命じた。大隊副官村田中尉を軍使とし、随員に中前軍曹、通訳金山軍曹(朝鮮出身者)、兵7名、軍犬1を、20日午前8時にさせた。
 
 随員の松本一等兵は後に軍使の父に当てた手紙が残っている。以下に記す。

『皆は無言、先頭に遊佐兵長の白旗。その後ろに整然と隊伍を組んで進む。色々なことが脳裏を去来した。荒貝沢入り口に近づいた。そこまでの距離は実に近くに感じた。酒屋があり、付近には民家かがまばらにある。むろん人影どころか犬1匹見えない。

 前方の様子が分からない。停止した副官は眼鏡を取り出して見たが、右手の小高い丘には何も見えない。前進30mほど進んで鉄道踏切に差し掛かったとき、突然、その丘の上にソ連兵が姿を現し、軍使の停止を求めながら近寄ってきた。

 分隊は踏切にいた。副官は白旗の遊佐兵長、中前軍曹、通訳の金山軍曹とともに前に進み出た。分隊との距離10mほど。副官が通訳を通じて話している。指揮官との会見を求めたのであろう。私たちのところからは何も聞こえない。

 軍使を取り囲むようにして、10mほど手前で一旦止まったソ連兵は、銃をそこに置けと要求、村田中尉の指示で一行は道路端に叉銃すると、同行している軍犬もそばの電柱に縛るよう要求、その指示に従った。こうして武装を解いた後ソ連兵が近づいてきた。

 軍使の申し入れに対し、ソ連兵は受け入れる様子がなく、1名のソ連兵が銃を構えて立ち撃ちの姿勢を取った。副官は胸元の銃口を手で横に押しやってなお話をする。金山軍曹が懸命の通訳をしていた。その時先ほどのソ連兵が突然副官の体に向けるなり銃を乱射した。

 「伏せろ」。誰かの声で、私は副官の倒れる姿を見ながら線路脇の排水溝に飛び込んだ。ソ連兵が最初の乱射と同時かけ集まって、自動小銃を構えて一斉に撃ち始めた。

 私は小銃を取って排水溝を30mほど走った。溝の横が小高くなっているので、ソ連兵の位置から視角になって気づかなかったのだろう。そして、さらには知って小山に登り、防空壕を見つけて飛び込んだ。ところがどうだろう。現場から50mほどの壕内に逃げ遅れた住民が入っている。北の方から来た避難民であった。銃声がやむのを待って「夜になったら部隊のいる方に逃げてくるように」と言い残し、夢中で本部に向かって走った。

 私は状況を報告した。仲川大隊長以下その時の顔を覚えていない。20分ほど遅れて遊佐兵長、太田上等兵が負傷し、血みどろになって帰ってきた』

 大隊長はこの時、初めて戦闘の腹を決めたのだろう。
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終 戦 Ⅶ  [記事]

台風10号ににらまれそうです。ちょっと雨が降るだけにしてほしい。


 ソ連の艦砲射撃。
 8月20日の朝早く、1発の艦砲射撃があったその音が逢坂の我々の耳にまで聞こえた。
 真岡市内には、軍隊は1個小隊ほど残っていない。すでに第1大隊は荒貝沢に大隊本部設置し後退していた。
 18日に古年次兵が除隊していった。 1個中隊の人員が7,80名に減ってしまったところもあり、比重としては戦闘訓練の未熟な兵が増えるということにもなった。

 20日早朝の、ソ連の軍艦が霧の中に見えたという報告が入ったとき、各隊は武装解除の準備にかかっていた。大隊長命令で将校斥候として岩瀬少尉がへいを率いて出て行った。同少尉らはその後ついに戻らなかったが、真岡の状況は連隊砲の広瀬分隊などから詳しく報告された仲川大隊長は、しかし、発砲を厳に戒めるだけであった。

 各隊は慌ただしく沢の両翼の陣地の配備についた。無意味な時間が流れていった。と、その時、上空を走る雷のような弾道音が一斉に起こった。
 重い霧は谷間に沈殿して、大隊本部付近多では視界35メートルほどであったが、上空は薄霧で、その中に艦砲射撃で真岡市街の一角が炎上したらしく、黒煙のたちのぼるのんが望見された。そしてやがて、豊真山道をこの荒貝沢目指して住民が避難してくるのが見えた。(逢坂にいる私たちはこの避難民に乾パン1袋ずつ渡す)。

 避難民の中には、引き揚げ船に乗り込むばかりに用意していた人たちもいた。しかし、寝間着姿のまま、むなもとをはだけ、裸足のままの人たちも多かった。砲声に驚いて寝間着に下駄のまま飛び出したものの着替えに戻ることもできなかったのであろう。途中下駄を捨て血だらけの足で集団から後れまいと必死の形相の人たちもいた。

 大和田少尉は、この朝疎開荷物の荷役などの作業隊長として出発することになっていたが、この人たちみると、武装解除のため道ばた積み上げてあった軍服などの山に駆け上がりスボンやシャツ、軍靴などをやり、一刻も早く豊原までゆきなさいとこえをかけてやったという。

 逢坂の山沢連隊長は直ちに各部隊が配置につくように指示したが、第一線の仲川大隊長からの報告が入ったのと殆ど同時であった。連隊長は仲川大隊長に対して、師団の従前からの指示に基づき、速やかに軍使を派遣することを命令した。

 真岡が艦砲射撃ばかりでなく、機銃の掃射を受け、火災が発生し、住民の中に死傷者が続出していることははっきりしていた。しかし、仲川大隊長は交戦を許さず、現場待機を命じ続けた。そしてソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近に見え始めた途の報告を受けた午前7時半、霧などによる不測の事態のこることも心配されたが、これ以上遅れては荒貝沢の第1大隊との間に戦闘が避けられないと判断、軍使村田中尉派遣を決定する。訓示の後送り出す。



 秋明菊
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終 戦 Ⅵ [記事]

雨降りの天気が続いたが昨日は雲一つない青空、外へ出れば太陽がさんさんと照りつける。

f早く10月頃になってくれないかな、体が持たない。

さて今日も25連隊の続きです。


 連隊本部付となる。
 開けて16日朝早く連隊本部に着く、名前が失念したが、わが中隊の見習士官が出迎えてくれた。
 朝食を食べて真岡の方向に鉄道線路を分隊長と3名で1キロほど歩いていると線路脇に大きな穴が開いていた。質問したらソ連機の爆弾の跡だという。周囲を見たらもし襲撃されたら逃げ場がない。早々にして帰る。
 本部付きとなったが仕事がない、聞いた話だが、電信郵便局長の家で寝泊まりしていて、電話の交換はこの郵便局の奥様が行っているという。万が一民間人が避難したらその後・・・

 次の日ソ連偵察機の機銃掃射を受ける。召集兵だろうか年配の兵隊が「たこつぼ」に入った。空から見ればまる見え、機銃のお見舞いをうけ、負傷した。我々は近くの林の中に隠れたので何事もなかった。
 あまり退屈なので線路巡回でもやろうかということで許可を取り、豊原方向に10キロほど歩いた。だいたいが鉄道線路沿いに電話線が通っていたので助かった。
 いつの間にか私は電話線路の真下を歩いていたとき、20メートル前を土煙を私の方に向かって走ってきた。あれ!何だろと思った瞬間ソ連の偵察機の機銃掃射、ちょうど2メートルほど手前で止まった。(これ、30秒ほど)
  
 私も慌てましたね、銃を撃ちましたが、悲しいかな単発銃。自動小縦だったら・・・

 

 北部での戦闘
 ソ連が8月8日、日ソ不可侵条約破棄、9日宣戦布告する。まず国境警備警察隊に加えられた攻撃であるが、その動きは緩慢であった。11日にソ連軍が本格的に侵攻してきた。ルートは2ルート。しかし、ツンドラ地帯で戦車や重砲などは通行可能ルートが限られ、国境警備警察隊と歩兵第125連隊2小隊120名が抵抗、敵、1個軍団を丸1日食い止めるが、その殆どが戦死する。

 第125連隊本部を八方山に置き、最後は国境より10キロほど南の鉄道の終着駅古屯を占領され、この街や八方山の攻防が17日まで続くが、結局19日午前0時にようやくソ連軍による武装解除となった。

 西海岸国境の町安別も占領され11日、塘路、恵須取の海から一度上陸しようとしたソ連兵を追いやったが、2度目には上陸され、太平炭鉱病院など無差別空襲、住民にも相当被害がでた。19日戦闘中止した。
 ここでも、炭鉱病院看護士が集団自殺している。 


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 ダリア。
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 ハッカ。
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 ニラの花。
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終 戦 Ⅴ [記事]

毎日暑いですね、暑さに弱い私は家の中にこもりっきりでいます。

今日も続きます、というと分かりますね。


 昭和20年3月10日入隊。
 私は歩兵第25連隊通信中隊(中隊長:日比中尉)に入隊する。続いて6月だと思ったがまた初年兵が入ってきた。
 豊原に新しくできた第306連隊に古年兵が移動。7月末にその初年兵と教育班を残して、中隊は歩兵第25連隊に小隊単位で各大隊に配属され結局ばらばらになる。

 先に北部両海岸(真縫~久春内)には第125連隊、第25連隊と第306連隊はその以南を米軍上陸を警戒警備についた。
 歩兵25連隊は連隊本部と歩兵砲大隊を小沼に置き、第1大隊落合に、第2大隊は西能途呂岬(北海道稚内要塞司令官の指揮下)第3大隊は留多香に展開した。
第3大隊に配属された私たち通信小隊(小隊長:仲川曹長)有線分隊は留多香通信郵便局の電話交換を行った。

 ソ連参戦で、連隊は真岡を中心とする守備についたのは、8月9日以降で、第1大隊主力が真岡に着き、小能途呂から真岡にかけての海岸線の背後に入り、連隊本部と歩兵砲大隊は逢坂に進出したのは12日であった。
 しかも、第1大隊の第3中隊は恵須取に第125連隊の応援に急派され、第3大隊の10中隊は上敷香の筑紫参謀の指揮下に入り、1個連隊というものの、歩兵は約半数の兵員であった。
 10日、本斗~野田に至る海岸線をソ連から防御するために重点配備をした。しかし、11日には国境方面の戦闘が思わしくないので第1大隊の一部を残し応援するよう師団命令。

 しかし、その後またウラジオストックからソ連艦隊が北上中ということで命令を取り消し、前任務に復帰するようとの命令で慌ただしい命令変更で右往左往したが、第1大隊は本部と主力を真岡・荒貝沢に残し、各中隊を決められた場所に配置した。

 第3大隊の私たちは、終戦の日15日にはこれで解散かと思っていたが、解散命令が出ない。その日の夜9時過ぎに、私たち分隊(分隊長以下9名)だけが転進命令、弾薬を積んだトラック2台に分乗し、連隊本部のある逢坂に・・・・

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