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尼港事件その 2 [記事]

 尼港は沿海州最北端、アムール河口に位置する港湾都市で、日本人が早くから移り住んで漁業関係の事業に従事していた。日本軍がここを占領したとき、日本人の人口は軍・民合計で八百人前後だった。

 1920 年1 月、共同出兵していたアメリカが単独撤退を発表すると、シベリアの情勢が激変した。アメリカ軍亡き後の主力は日本軍だけであり、しかもほぼ時期を一にしてコルチャック政権が消滅したため、シベリアの革命派は一気に勢力を増し、攻勢をかけてきたのである。このため、反革命派を支援していた日本軍は危機にさらされた。

 革命派はウラジボストーク、ハバロフスクなどの拠点にじわじわと勢力を浸透させ、アムール河口の尼港にも触手を伸ばしてきた。トリャピーツィンの指揮する四千人のパルチザン部隊が、尼港を包囲したのは同月末のことだった。この部隊にはロシア人のほかに、多数の中国人、朝鮮人が含まれていた。

 彼らは包囲に先立って、ハバロフスクと尼港を結ぶ電線を破壊したため、外部との通信は無線による以外は不可能となった。更にまた酷寒のシベリアは、11ー5 月までアムール川と河口の港湾が凍結する。したがってこの間、尼港は艦船で近づくことができず、外部から遮断された、全くの陸の孤島と化してしまうのである。

 包囲された状況での戦闘で日本軍は善戦したが、四百人の兵力では四千人の敵軍かなうはずもなく、翌二月末になって「日本人居留民に危害を加えない。ロシア人、一般市民の生命財産を保証する」を条件に講和、開城を受け入れたのである。更にまた「日本軍と作戦行動を共にした、ロシア人白軍兵士の生命の安全を保証する」という条件で彼らの武装解除も承認した。

 だが開城後乗り込んできた赤軍パルチザンは、たちまちその本性をむき出しにした。武装解除された白軍兵士を片っ端から殺戮し、ロシア人資産家の屋敷を襲って殺人・暴行・強盗・強姦の限りを尽くし、はては日本軍の武器の引き渡しを命じてきたのである。事ここに至って日本軍も反撃の戦いを開始したかが、もはや手遅れだった。三月中旬酸鼻を市街戦が始まり、八百人の日本人の大半がこの時殺された。赤軍パルチザンの中でも最も残虐行為を行ったのは、中国人と朝鮮人の兵士だったという。

 もし日本軍が白軍兵士の武装解除認めず、彼らとともに武器をとって徹底抗戦していれば、赤軍パルチザンは膨大な犠牲を出していただろう。白軍の幹部は「赤軍は約束したことを破るなど屁とも思っていない。彼らは必ず我々を裏切って皆殺しにしてくるだろう」と最後まで武装解除に抵抗した。さすがに彼らはロシア革命後数年間にわたる赤白内戦の嵐の中で、共産軍兵士たちの非人間的な残虐ぶりを、骨の髄まで思い知らされていたのである。この白軍幹部は開城直前に、日本軍に対してそれまでの援助と協力を謝し自決して果てた。

 五月に入り、アムール川結氷も解け、港を閉ざしていた流氷も去り、音信不通となっていた陸の孤島尼港に、ようやく救援の手が差し伸べられようとしてきた。このころには尼港の情報はある程度日本にも伝わっていたから、ハバロフスクの日本軍第十四師団主力がアムール川沿いに、さらにまた日本本国からも休出の艦船が、尼港目指して向かった。

 この動きを察知するや、トリャピーツィン指揮下のパルチザンは尼港脱出を決め、その直前に、生き残った市民に対する最後の大殺戮を決行したのである。三月の殺戮をかろうじて生き延びたわずか百数十人の日本人は、負傷者や病人を含めてすべて市内の収容所に収監されていた。彼らは五月二十四日、全員アムール川の岸辺に連行されてそこで虐殺されたのである。

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 上の地図右側にある「ソビエツカヤ・ガバニ」という都市の20キロほど北に、「ワニノ」という港がありますが私たちはこの港に上陸しました。築港には鉄道線路が2本ありました。新しく「サハリン」の連絡船の岸壁は別に作ったようです。

 この港から貨車で捕虜として北に向かったがどこに住んでいたか、いくら地図を見てもわかりません。とにかく鉄道線路に砂利入れて線路を固めたものです。この線路はアムール川の鉄橋を渡ってバム鉄道(シベリア第二鉄道)につながっています。場所は「コンソモリスク・ナ・アムーレ」の町の近くの小さな駅近くで接続しています。当時は貨車を積んだ船がかわを往復して冬になると氷が張るので交通途絶になっていました。


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尼港事件その1 [記事]

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


 尼港事件とは何か・・・

今から九十六年前の大正九年、ロシア革命のときのお話です。 (雑誌「別冊正論25」東京国際大学教授堀江雄三氏著)「赤軍の大規模虐殺と尼港事件が現在に投げかける教訓」の本題をここに乗せました。
 私は樺太に住んでいましたが、この話は小学六年生ころ耳にしました。

 ロシア極東のニコライエフスク港 (以下尼港と表記する) で軍人を含めた七百数十名の日本人居留民、ロシア革命直後の赤軍パルチザンによって惨殺された事件である。氏名の把握できている最低限の数字であり、実際はこれより遥かに多くの日本人が犠牲になったものと思われる。ロシア革命後の共産ソ連の恐怖の実態を、われわれ日本人に想起させる事件として語り継がれてきた。それではこの事件が起きた当時の背景と世界情勢を眺めてみよう。
 
  第一次世界大戦の最中、1917年3月に起きたロシア革命でロマノフ王朝が倒れ、西欧型の近代的ブルジョア資本主義を標榜する政権が成立したものの、わずか八か月後の11月にレーニン率いるボルシェビキ政権にとって代われた。すなわち共産主義の国家が誕生したのである。だがあの広大なロシアの大地の隅々にまでソビエト政権による支配を確立するのは容易なことでなく,各地に反革命勢力が結集して独自の政権を打ち立て、連携しながら中には帝政ロシアの復活を夢見る者もいた。

 連合国は当初、革命後のロシア領内に取り残されたチェコ軍救出の名目で、日米を主力に日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の軍隊がシベリア共同出兵した。日本軍は大正7年8月、ウラジボストーク上陸占領後、わずか一か月で沿海州全域及び鉄道沿線地帯を占領しバイカル湖南端のイルクーツクにまで達した。しかし11月、ドイツが降伏して大戦が終わると、シベリア出兵の名目は、チェコ軍救出から反革命政権の援助へと変化していった。

 反革命勢力で最大のものは、西シベアのオムスクを拠点とするコルチャック政権であった。連合国はこれを支援したため、一時は相当な勢力を誇ったが、革命後の赤白内戦で次第に追い詰められ1919 年11 月ついにオムスクを捨て、極東太平洋岸のウラジボストーク目指して、逃亡の旅路についたのである。

 時あたかも冬の最中で、ようやくバイカル湖にたどり着いたのは年が明けて厳寒の2 月、バイカル湖は一面に分厚い氷が張り詰めており、氷点下60 度の大寒気が襲いかかって全員湖上で凍死してしまい、コルチャック政権は完全に消滅し、ボルシェビキ政権の支配の揺るぎがたいものになると、出兵していた国々は見切りをつけ、シベリアから撤退を始めた。その矢先に起きた尼港事件だったのである。

 次回に続きます。 

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シベリア出兵 [記事]

 長い間ブログ休んでしまいました。
 初めにちょっとだけシベリア出兵の話を書きたいともいます。
 シベリア、私が丸3年も捕虜生活したところ、このシベリアを飛行機の小さな窓から眺めた人も沢山いると思いますが、ユーラシア大陸の北辺にあたり西はウラル山脈、東は太平洋岸にまで広がり、その面積は1380万平方キロ。地域差はあるが、長い冬は氷点下が続き短い夏は蒸し暑く、人間の住む環境としては過酷である。そんなシベリアだが日本人には因縁深い歴史がある。

 シベリア出兵は、ロシア革命の混乱に乗じ、チェコ軍救出のため、1918(大正7年)に日本海に面したロシアの港町、ウラジオストクに日本を含む各国の軍隊が上陸して始まった。

 日本はウラジオストクからは22年に撤兵するが、実際は北サハリンに「保障占領」の名のもとに日本軍が居座った。それは「尼港事件」である。



 「尼港事件」は次回として、「保障占領」は「尼港事件」の犠牲者に対する補償問題として北サハリンの石油探査などの条件、今は終わった話ですが。。。。

下の写真は函館五稜郭公園の新旧タワーです。
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留萌沖で引き揚げ船撃沈される [記事]

北海道留萌沖で樺太引揚者の乗った船がソ連潜水艦によって撃沈されている。


 ◆ 小笠原丸撃沈 
 8月20日引揚者1500名ほど乗せて大泊から稚内に、約800名ほどが降り。列車の混雑で残りは小樽へ向かう途中22日ソ連潜水艦により攻撃され、撃沈させられ638名が死亡、生存者61名。
 
 ◆ 第2新興丸大破
 この船は軍部に徴用され、12吋砲4門、25㍉機関銃3基装備されていた。宗谷海峡の機雷敷設の帰りに3400名を乗せて大泊から小樽に出航途中留萌沖で潜水艦魚雷攻撃を受け命中、潜水艦2隻が浮上攻撃されるが応戦、油が浮いていたので1隻は沈没したようだ。
この船は機関に異常がなかったので留萌港に入るが400名程が犠牲になる。
 
 ◆ 泰東丸沈没。
 同日、戦時国際法に則り白旗を掲げて航行中ソ連潜水艦によって撃沈され、667名が死亡する。



 ◆ オオケタデ。
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 ◆ ハマギク。
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 ◆ ノブドウ。
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真岡・町長奇跡の生存    [記事]

真岡町長奇跡の生存

 田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。
 
「当時、第5方面軍航空情報隊第4監視隊に所属する下士官で豊原におり、樺太南部、富内、大泊、西能登呂などに監視哨を配置、情報収集に当たっていた。真岡からは刻々、戦闘状況が入ってきたが、やがて、混乱状態になり姉妹隊である真岡監視隊も撤退するという連絡を受けた。その後ぷつりと真岡の情報が止まった。どうもおかしいというので竹井隊長の命を受け駅前の豊原郵便局二階の逓信局に駆け込んだ。

 薄くらい業務課の片隅に、ただ一人、国防服に巻き脚絆をつけた伊賀業務課長腕を固く組んで、沈痛な面持ちで座っていたが、申し訳ない事態になりました、最後の連絡を話してくれました。実は、今朝真岡の交換手が自決しました、といって最後の連絡を話してくれた。同課長はその後、戦犯でシベリア送りとなり、凍り付いたシベリアの土となったと聞いたが、あのときの苦悩する姿が忘れられない。

 真岡町長の高橋勝治郎さんはソ連兵にとらわれ、真岡高女の西尾誠先生らとともに港に連行され、ソ連兵に撃たれた。一緒に撃たれたのは10人ほどだったと云うが、その中で高橋町長だけが奇跡的に一命を取りとめている。

 道下さんは本古舟漁業上田政の時化之助さんに後日聞いたこととして次のように書いている。
「九月初旬、近くの幌泊海岸に巡査部長の制服をつけた死体と背広の死体が漂着、死体処理のため蘭泊村役場の人が現地に駆けつけ、その氏名を確認した上、付近の高台に埋葬した。警官は支庁警務課会計係今﨑巡査部長、背広の人は西尾先生で、、二人とも銃創があった。また、少し北の楽磨海岸にも死体が漂着調べた結果、同じく警務課の福田武雄巡査と確認された。上田さんと別れ、役場で死体処理に当たった吏員に会ってそのことを確かめた」

 道下さんの記述から見ると、この人たちが高橋町長と同じように撃たれたのであろう。
 町長は20日朝、藤岡助役、長男英一さん、それに第一国民学校の八木橋亀太郎教頭らとともに、同校に集めたご真影を、総合グラウンドのタコツボで焼却していた。英一さんは、母たちがすでに疎開した後で山手町の官舎に父の町長と二人で生活しており、この朝父に従って焼却を手伝っていた。ソ連軍の砲撃はそのとき始まった。

 高橋町長は、藤岡助役や息子の英一さんらを逃した後、第一国民学校内の仮の町役場に入っていた。そこにどかどかとソ連兵が侵入、取り調べをした。英語で「私は町長だ」繰り返したがソ連兵には通じない。そしてソ連兵が何をいっているのか皆目見当が付かないうちに北浜町の岸壁に連行された。一列に並べられるとなぎ倒すような自動小銃の乱射、町長は腰を撃たれて倒れたとき、二発目が肩に当たった。ソ連兵は倒れた町長の背中に上がって、さらにとどめの一発を撃ったが、そのまま意識を失い記憶がない。

 どのくらいたったのか、ふと町長が気づくと倒れた体を冷たい波が洗っていた。どうやら付近の破船の陰に三日二晩、じっと身を潜めていたそして22日夜少し離れた小山田さんの家にはってたどり着き空腹にがぶかぶ水を飲んだ。

 最初に町長を発見したのは工藤キセさんだった。

 私達も逢坂ー豊原ー真岡と移動し真岡の焼け跡整理の手伝いをするに3日程通ったとき、波止場には水ぶくれになった死体が、4体ほど浮かんでありました。また真岡の南の手井駅から1キロほど山の方に死体が一体、腐敗臭を発して、ありました。話が変わるがいよいよシベリアに・・・


 コルチカム。
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 シュウメイギク。
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 ススキ。
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真岡・絶望の逃避行 ②  [記事]

 絶望の逃避行  

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。 
  前回の続きです。
 重いリュックを担いでみたものの、妻を背負って逃げる場合を考え、諦めると、裏口の防火用バケツそれぞれ頭をかぶりながら、官舎を飛び出すとジャガイモ畑を一気に走った。

 起伏する丘を私達は稜線目指して走った。霧が薄らいで朝の太陽に光る芋の葉の露、紫の白の花、ブスッブスッと弾丸が足下に刺さり、頭上をかすめる。私達が狙撃されているような恐怖、妻は10歩走って「もう、駄目」とあえぎ、5歩走っては倒れる。そのつど私は駆け戻って、叱りつけ、妻の手を引っ張っては走り、朝露に濡れた土に伏せ、また走る。長い時間のように感じたが30分も走ったのであろうか。私達はバケツをかぶった異様な姿で、稜線の陰に体を投げ込むように駆け込んだ。

 そのうちにこの山陰にあちこちから人々が逃げてくる。顔見知りの憲兵もいる。稜線からのぞくと、霧の中で町の数カ所から大きい黒煙が上っている。建物の陰になって埠頭は見えないが、あちこちでアリのように活発に動いている。おびたたしい人、ソ連兵は完全に上陸したのであろう。

 沖合には軍艦らしいものが、白い霧を通してふたつみっつち見える。黒煙はみるみる赤い炎とって天を焦がす。稜線めがけて弾丸は激しい。

 妻をうながして、真岡沢に向かう。山陰から、真岡沢の入り口から、続々町の人たちが逃げてくる。沢に入ったので機銃弾は飛んでこなくなったが、砲声はますます盛んになった。真岡沢から林道に上る決心をして、妻を引っ張るように進み、沢の苗圃の事務所に着いた。管理人はいち早く逃げ出したらしい。勝手知った台所に入ると飯を炊いたばかりの釜が空っぽで放ってある。畳に靴の跡、後から来た避難民が、ごっそり頂戴していったらしい。

 私達は朝飯前だったし、これから先の林道のことを考え、まず食料と飲み水を用意するべく一反風呂敷と米、干し魚を無断借用、裏口に回って、コンコンとあふれるわき水腹一杯飲んで、一升瓶にも詰めた。

 これだけではまだ不安なので、荒縄を持って、鶏小屋に入った。しかし、鶏は騒ぎ立て、逃げ回ってなかなか捕まえることができない。その代わり、産みたての卵が二つ、逃げ出した巣箱にあったので、一つずつご馳走になった。これが2月20日の朝食であった。
 
 苗圃のそばを次々に通っていく避難民の中に、私の係の女子職員がいた。私は転がっている一升瓶に水を入れて持って行くように進めた。事務所を出て暫く行くと、沢の奥の原っぱに数百人の人たちが集まっていた。裸足の男、布団に老人を包んで担いできた中年の男、小さい子供の手を引いて不安そうな表情の婦人、中にリュックやトランクを持った人もいたが、殆どは着の身着のままである。

 「林務の者はいないか」大声で叫んでいる。近づいてみると日影舘支庁長である。私を見ると豊真山道の合流点まで案内せよという。私は妻がこの通り病人なので先頭に立って案内はできないが--といって、支庁長ら主だった人たちに、避難道を詳しく知らせた。

つづく。


 津軽海峡函館湾
 右上の黒く見える山が函館山。
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 函館湾に入ってきました。
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 画面中央の黒い線が見えますが防波堤です。
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 フェリー埠頭
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真岡・絶望の逃避行 ① [記事]

 絶望の逃避行

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。
 死の恐怖におびえながら、町にとどまって人たちとは別に、不気味な砲声に追われるように豊真山道(豊原ー真岡の道路)などを逃げた人々もまた死に勝る苦労をしたのである。避難民の数は15,000とも18,000人とも言われた。真岡から豊原方面に抜ける豊真山道の入り口は、町の北の外れにあったため、昭和18年、真岡林務署が、南の金田の沢から入って逢坂に抜ける”避難道路”をつけたいた。西村宗信(元真岡林務署林産航空油主任)は、「私が造林主任だった昭和18年、細越業務課長の発案で、敵が上陸したときに備える避難林道を造った。初め真岡沢を起点にしようかと思ったが、急峻なため金田の沢に変更した。幅1.2メートル、延長15キロ、道はつけたものの、翌年からは維持費がつかずあれるに任せ、私自身も忘れていたが、真岡最後の日に思い出した。

 使用されたのはわずか一日だけであったが、数千の人たちの生命がこの避難林道によって救われたことの喜びと悲しみ、私は生涯忘れることができない、20年たった今、あの林道は白樺やとど松が密生し、もはや熊も通る路もないであろうが・・・・」と語っている。
 西村さん自身もこの道を避難したのである。西村さんは避難林道を逃げたときの状況を次のように語っている。

 バリバリと脳天がさけるばかりであった。空襲ーー私は、直感的に妻を引っ張るように前の防空壕に前の防空壕に飛び込んだ。10秒、20秒壕の中で私は不安に襲われ、妻の制止も聞かず、顔を出してみると、海からも銃砲声、壕がときおりズシーンと揺れる。しかし、天地を引き裂くような銃砲声の中で、この南浜町は道路にも官舎街にも人影一つ見えず、不気味なほど静まり帰っている。

 みんな私達だけ残して、逃げ去ってしまったのだろうか。今ソ連兵がやってきたら身を守る小刀とてない---逃げよう。妻は手術を受けて退院したばかりで、歩行さえ思うようにならないが、このままでは必ず殺される。よし、逃げられるだけは山に逃げよう。私は無理矢理妻をせき立てて、官舎に戻り、新しいもんぺ、地下足袋をつけさせた。
    
つづく。


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ソ連軍、停戦後の豊原空襲 [記事]

停戦後の豊原空襲


 22日、知取において停戦交渉が成立「捕虜となるも即時停戦せよ」との師団命令が各部隊に出されたが、同日午後、豊原市はソ連機の空襲を受け、緊急疎開のため豊原駅前広場に集まっていた老人、婦人、子供たちの中から多くの犠牲者が出た。停戦交渉成立後二時間以上経過の惨事である。

 ソ連機による南部地区への空襲は豊原空襲以前には、前日の21日午後、内淵の人造石油工場を空襲した八機が落合町を空襲した。

 北海道庁に戦後、引き揚げ者がもたらした報告として残っている資料では内淵の人造石油工場で死者3人、落合駅付近と映画劇場付近で約60人の死者があったという。

 「21日、私達は駅前にテントを張り、婦女子の疎開の事務をやっていたと、内淵方面で落雷のような音がして怪訝そうにみんなが語り合っていると、まもなくソ連機が低空で突っ込んできた。駅が目標と判断した私達は駅前に集まっていた大勢の人たちに「『近くの防空壕に避難するのだ』」と叫び、私自身飛び込んだ瞬間、ものすごい振動で、壁に体をいやと云うほど打ち付けられた。死者数は把握していないが相当な数であった」。

 終戦になると市役所の斡旋で、白布を集めて白旗を作った。豊原の駅舎の屋根や周辺の建物の屋上等に掲げ、無抵抗であることを示した。

 一方、疎開列車は東海岸線を奥地からやってくる列車のほか真岡方面からのものもあって大泊駅が大混乱、20日には残客が大勢出たので市内で宿泊、配船を待っている。

 21日分の収容力が、全くないから列車は豊原で打ち切って収容して欲しと大泊駅長からの要求があった。しかし、真岡方面からの260人を乗せた列車が入って午前10時には発車することになっており、続いて正午には敷香方面からの列車が入ってくることになっており、さらに構内の仕分け線は貨車が満杯で、やむなく真岡からの列車は発車させた。

 そして380人を乗せた次の列車ちょっと遅れて午後零時15分遅れて豊原駅に滑り込んできた。乗客下車させて駅前広場に誘導、市職員が町村ごとに宿舎を割り当てた。

 そのとき駅員が「敵機襲来」と叫んだ。ソ連機が2機駅の広場にいた避難民に機銃掃射や爆弾を落としていった。北海道庁の資料に死者108人とある。

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真岡・警察 [記事]

真岡警察の動き


 この真岡の混乱の中で当時、駅前交番に勤務、かたわら鑑識の仕事していた宮崎行雄巡査、同署経済課油槽係、笠原辰巳さんらの話を綴ってみた。

 宮崎さんと笠原さんが非常呼集を受けたのは20日5時半頃、石浜町の下宿から走って本署に駆け込んだのは同45分だった。三浦春美署長らはすでに署内にあり、使丁さんは大きい釜で飯を炊き、味噌汁を煮ており、到着した者には次々小銃と弾丸920発ずつが配布された。署員は飯を飯ごうにつめ、鉄兜を背にくくりつけ、緊張した面持ちで署長、木村警防主任らの訓示を受けていた。

 ソ連軍はいずれ上陸を企てることは予想していたから、その場合、住民を誘導避難させ、ときによっては最後の抵抗を試みるための準備と分担はあらかじめ決まっていた。また住民の避難を指導するために警防団や消防署の幹部も同時に呼集されていた。

 不気味な弾道音が、突如、建物を振るわせるように飛んだのはそのときだった。そして、やがて海岸線に近づいたソ連の自動小銃弾が厚いコンクリートの壁に当たって跳ね返り始めると、本庁から南浜町にかけての路上には、町民が飛び出してきた。防空壕や家の中の防空室に隠れたものの、銃砲声が一段と強まり、ソ連軍の上陸が始まると恐怖がつのって逃げ出したのであろう。一部の署員は小銃や鉄兜を隠すと逃げまどう人たちを誘導するためばらばらと弾雨の中かけだしていったが、ソ連軍の銃砲火はその頃からひときわ激しくなった。

 徹甲弾のような大きな大きな弾丸が飛んで来始めた厚い庁舎の壁がみるみるうちに打ち砕かれ、崩れ落ちていった。

 宮崎さんは交換室に危険を避けて飛び込むと、警防員や同僚警察官がすでにぎっしりで、交換台の影などに隠れていた。もう下混む余地がないと判断すると、慌てて庁外に走り出て 防空壕に潜り込んだ。その豪は庁舎の前のアスファルト舗装の下をくりぬいたもので、その濠内では三浦署長と近村義治義治巡査部長、川崎伸宏巡査部長、鈴木稔巡査、ら八人が身を潜めていた。

 ソ連兵は警察署付近に進出してきた。豪の出入り口の蓋をかすかに持ち上げてみると、署の前の消防本部内にソ連兵がすでに侵入、3台のポンプ車を引き出し石油の一斗缶を積み上げている。焦土戦術かと見ているうちに、兵隊が乗って走り出した。木造の家に石油をかけて火を放ったのであろう。やがて、豪から見回す街は火の海と化した。黒煙の中から吹き出すような炎が、音を立てて家々を焼いていった。

 「どうする」三浦署長を中心に八人は、この危機をどうやってくぐり抜けるか、額を寄せて話し合った。しかし、脱出するにしても付近はすでにソ連軍に占拠されているに違いないし、このままでいては、いつかソ連兵に発見されて皆殺しになるでしょう。・・決断が容易に付かなかった。そのとき、川崎部長が「署長、私に任せてください」と申し出た。

 署長の許可を取った川崎部長は、豪の蓋をわずかに開けて、周囲の様子をうかがっていた。しかし、火勢も見る間に激しさを増し、川崎部長も飛び出すことができず、脱出の機会を失って壕内に身を潜ませているしか方法がなかった。

 宮崎さんは「私達はもう駄目だと思った。そして、死が目の前にぶらさがっているとなると、それまでの恐ろしさが消えてしまってただ無性に眠くてどうにもならなかった」と、不思議なそのときの心理を語っている。いつの間にか、みんなが座ったまま、うつらうつらとしていた。しかし何かの気配を感じたらしい一人が、壕の蓋をわずかに押し上げて外を見て将校と兵10人ぐらいが巡察しているのに気づいた。

 不安な数分、アスファルトの歩道を歩いて来るソ連兵が、壕の蓋の上に脚をかけると「ガタ、ガタ」と音がした。何か言い合うような声がする。

 息をのむ一瞬、ガタンと音がして蓋が開かれた。兵隊が着剣の先でこじ開けたのである。パッと飛び込んできたで、眠っていた人たちは目を開けた「パパーン」三、四発、壕内に向けて自動小銃が撃ち込まれた。

 「ウーッ」見ると入り口のそばにいた藤井巡査が倒れかかりながら、、何か言おうとするようにして口を動かした、川崎部長らが慌ててその口を手で押さえた。銃弾の一発は藤井巡査の左腕を貫通、一発は体内に入った。

 傷口を上にして同巡査の体を横たえ、ハンカチや手ぬぐいを集めて、あふれる血を押さえると川崎部長は、その耳元に口を当てて、「藤井、声を出すな。傷はたいしたことがない、すぐ手当てをしてやる」。声を出すよみんながやられるぞ」と声をころしてささやいた。

 樺太警友会名簿によると、同署員の死者は9名となった。

  金子俊男著 樺太終戦記録より


 スズランの実
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 モミジアオイ
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 オオハンゴンソウ
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 ヒメヒマワリ
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 ノコンギク
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樺太・逢坂 [記事]

7月末には歩兵第125連隊は国境および北部両海岸、その南を第25連隊、第306連隊を米軍上陸を警戒して展開した。

第25連隊は対米陣地構築のため連隊本部、歩兵砲大隊を小沼に置き第1大隊を落合に、第2大隊を西能呂岬(北海道稚内要塞司令官の指揮下)、第3大隊は留多加に置いた。

私達通信中隊は連隊が各地に展開する際、歩兵第25連隊の各大隊に配属、中川曹長小隊長として第3大隊に配属、私達分隊9名はこの町の電話交換業務を行う。

8月15日午後10時頃弾薬を積んだトラック2台に分乗、16日早朝逢坂の連隊本部に到着する。ソ連参戦で第1大隊、連隊本部は13日とか。

(上敷香に残ったのは初年兵と教育班だけでソ連と参戦してから、どうなったか私には分からない)

  地図。
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  ユリ。
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タグ:ゆり
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