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終 戦 Ⅱ [雑感]

当方でもとうとう30度を超えてしまいました。

7日は32度まで上がりました。私は暑さに弱いので困ります。

さて前回の続きになります。


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 軍の状況 Ⅱ
 7月末にはだ第125連隊は国境および北部東西両海岸(真縫~久春内)、その南を第25連隊、第306連隊を米軍上陸を警戒して展開した。

 第25連隊は対米陣地構築のため、連隊本部、歩兵砲大隊を小沼に起き第1大隊を落合に、第2大隊を西能途呂岬(北海道稚内要塞司令官の指揮下)、第3大隊は留多香に、真岡に特設警備305中隊が警備についた。(この特設警備隊は終戦の15日に解散している)

 私たち通信中隊は初年兵と教育班を上敷香に残し、各大隊に配属された。第3大隊には私たち有線分隊を含む通信小隊(小隊長 中川曹長)が配属され、私たち有線分隊は留多香郵便局の電話交換台1台を軍用にして交換業務を行った。
 
 ソ連参戦で、連隊は真岡を中心とする守備についたのは、8月9日以降で、第1大隊主力が真岡に着き、小能途呂から真岡にかけての海岸線の背後に入り、連隊本部と歩兵砲大隊は逢坂に進出した12日であった。

 しかも、第1大隊の第3中隊は恵須取に第125連隊の応援に急派され、第3大隊の第10中隊はは上敷香の筑紫参謀の指揮下にはいり、1個連隊というものの、歩兵は約半数の兵員であった。

 10日、本斗~野田に至る海岸線ソ連から防御するために重点配置をした。しかし、11日には国境方面の戦闘が思わしくないので第1大隊の一部を残し応援するようの師団命令。

 しかし、その後またウラジオストックからソ連艦隊が北上中ということで先の命令を取り消し前任務に復帰するようとの命令で慌ただしい命令変更で右往左往したが、第1大隊は本部と主力を真岡・荒貝沢に残し、各中隊小隊を決められた場所に配置した。

 第3大隊の私たちは、終戦の日15日にはこれで軍隊も解散かと思っていたが、解散命令が出ない。その日の夜9時過ぎに、私たち分隊(分隊長以下9名)だけが転進命令、弾薬を積んだトラック2台分乗し、連隊本部のある逢坂に・・・。

 第25連隊本部の各大隊などへの通信連絡は殆ど電話連絡。逢坂郵便局の電話交換は局長の奥様が行っている。私たち分隊は何のために逢坂に転進したのか・・電話線の保守程度か。
 


 次回に続く

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タグ:終 戦 Ⅱ
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終 戦 Ⅰ [雑感]

なんやかんやでずいぶん長くブログを休んでしまった。

家内は医師の説明では左足の膝にひびが入っているとのこと。

4年前に右股関節骨折、歩くまでに5ヶ月ほどかかった。

8月はソ連の捕虜となった月でいつも忘れることができない、

毎年同じことを書いてきたが、たぶん今年で終わりにしたい。


 は じ め に
 終戦から71年長い月日が流れた。経験者として私たちの中隊ばらばらとなったため、殆どもう逢いません。

「氷雪の門」のある北海道稚内の丘に立つと鉛色の宗谷海峡の向こうに樺太が見えるその詩文には、「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からこの地に帰った。

 戦後はその門が堅く閉ざされた。それから、十八年(建立は昭和38年)望郷の念やみがたく、多くの同胞の霊を慰めるべく、肉眼で樺太が見えるゆかりの丘・・・」とある。

 思えば昭和20年の夏の初めまでは樺太は、本土決戦という悲壮感が日本中に覆って中で、唯一平和な島であった。だが、その樺太の平和も8月9日の朝、ソ連対日参戦によって、一方的に破られた。

 札幌の第5方面軍は当初ソ連とは不可侵条約があるので、米軍の侵攻ばかり想定していたようだ。

樺太の地図。
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 軍 の 状 況
 国境の守備は国境警察隊が警備していたが、1941年6月(昭和16年)に国境から100キロ南の上敷香に歩兵第125連隊、歩兵第25連隊を基幹とする樺太混成旅団が結成された。

対ソ静観の方針に従い情報収集や物資集積に努めていた。

 アッツ島玉砕を受け関心が千島の不十分な防備に移ってしまった上、対米戦のための陣地構築が樺太南部や東海岸で実施されるようになったが、その進捗は中途にとどまった。

 さらには国境地帯に広がるツンドラが陣地構築に妨げとなったり、住民の避難については、1944年秋に第5方面軍指示されたが資材や人員の不足から、上敷香から内恵道路に至る道路を構築しただけに過ぎない。

 昭和20年6月に豊原に歩兵第306連隊が結成され、20,200名とも22,000名とも言われる第88師団が編成された師団長は峰木中将。

 師団隷下、歩兵第25連隊、歩兵第125連隊、歩兵第306連隊、師団通信隊、第88山砲、第88輜重、第88工兵各連隊で航空機、戦車はなし。そしてその上部機関は札幌の第5方面軍。

 次回に続く。


 グラジオラス。
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 モントプレチア
 別名:ヒメヒオウギズイセン。
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タグ:終戦
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終戦、67年にあたって [雑感]

今年もまた、67年目の終戦の日がやってきました。
ブログに終戦当時のことを毎年書いてきたが、あるブロガーに敗戦国の惨めさは当たり前という趣旨のことを書き込まれ、死亡者や戦災にあわれた方々に大変失礼なことを書くものだと思った。もう、書くのはやめようかと思ったが、これが最後になるだろうと思い簡単に書くことにしました。

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私はその年、樺太の南岸、留多加という街で歩兵第25連隊通信中隊の一分隊員として(分隊長以下9名)その年の7月からこの街の郵便局にある交換台の一台を軍用としてその交換業務を交代でやっていました。
やあ、これで帰れるか・・・皆で話していたが、いつまで待てども解散命令が出ない。夕方になって連隊本部に転属せよとの命令である。なんとこの日から私たち分隊は戦争に引き込まれてしまった。

その日の夜10時ころ、弾薬を積んだ2台のトラックの荷台に分乗、翌日の朝早く真岡の近くの逢坂という小さな街の近くにある連隊本部に到着した。その日は寝ずの勤務である。

最終的に樺太における88師団の全面降伏は8月25日でしたが、連隊は8月23日に停戦、私たちはソ連の捕虜、シベリア行き、何とか丸3年生き延び復員できました。


私はこのように考えています。
あの戦争は歴史を繙けば、日本自らの覇権主義から起きた戦争でした。

矛盾があるが、ただ一言。・・・受けて立つのは結構だけど、でき得るならば自ら戦争などはすべきでない。だが、自国は自国民で守らなければ・・・と。

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皆さんにはご存じの方もおいでになると思いますが、・・・
◆ ヤルタ会談。
1945年2月(昭和20年)、米、英、ソ連の3首脳がドイツ降伏後の戦後処理を話し合われた。その席で米ルーズベルトとソ連スターリンとの間で日本領土の千島列島、樺太南部をソ連が領有する、と、日本に対する参戦を促した。この時スターリンは北海道西岸留萌と釧路を結ぶ北側をも領有すると話になったが米大統領トルーマンに断られた。これがヤルタ会談である。

ソ連は日本との不可侵条約を1945年8月8日、条約破棄を通告、宣戦布告を行い満州へと派兵する。8月9日には樺太国境を越えるが、国境警備隊と歩兵第125連隊が古屯でこれを阻止、終戦後8月16日に停戦、する。

◆ ポツダム宣言。
1945年8月2日、ドイツのベルリン郊外の、ポツダムにおいて米、英、ソ、中華民国が日本に対し降伏か否かを13ヶ条にわたって迫った宣言ですが、ソ連はまだ、日ソ不可侵条約が締結されていたので、この時は文書には署名できなかった。

日本は、今後の天皇制について書かれていなかったので無視したが、8月6日、広島、8月9日、長崎に原爆が落とされ、最終的に8月14日、受託、15日正午天皇の玉音放送となった。


◆ 戦後、ロシアとは千島4島の問題で平和条約が未だ締結されていない。

今日は噛んでも噛みきれない固~いお話でした。


◆ 樺太の終戦の話はこれで終わります。次回は18日土曜日です。


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