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70年前 [政治]

皆さんもご存じの方も居られると思いますが
   七十年前の今日未明、世に言う 2.26 事件がありました。
      昭和維新を叫ぶ青年将校らが兵隊約千五百人を指揮し
          天皇側近や軍・政府高官を襲った日です。

ただちに戒厳令が発布され、首謀者が逮捕され、
   七月四日に首謀者十五人が死刑執行されました。

青年将校らは、農村の疲弊を見聞きし社会の矛盾を正そうと思い詰めた。
   軍内部に同調論もあり、上層部の指導権争いが加わってこの事件が起きたのです。

政治家はこのような暴力におびえ、軍部の専横が始まりました。
   これが歴史の分かれ目となり、軍部が中心となり政治を操り
      太平洋戦争まで発展していったという歴史があります。




◆ 大涌谷から見た富士山。



   


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終戦60年目 [政治]

今日は60年目の終戦の日です。
いま思えば、ばからしい戦いをしてきました。

昭和20年6月にわれわれの部隊は樺太(現サハリン)の各地の警備についた。
私は歩兵通信中隊にいたがその時一個分隊(9名)、ばらばらに各中隊に配属され私たちは樺太南の留多加という町に展開警備についた。

8月15日終戦と同時に作戦のため樺太山脈のど真ん中(豊原―真岡)、部隊本部のある逢坂という小さな村に弾薬を積んだトラックに相乗りして私たち通信兵一個分隊は移動した。

もう、樺太には戦闘機もない状態、ただソ連側の戦闘機の機銃掃射や爆弾に悩まされ、前線部隊との通信に従事した。

真岡にソ連軍の艦砲射撃や上陸で前線部隊は次々と後退するうち、ほとんどが戦死、本部にたどり着いた兵士の話によると鉄道線路伝いに逃げ帰る途中鉄道のトンネルから出て鉄橋を渡る途中で山からねらい撃ちをされたらしい。

婦人、子どもが戦火から逃れて続々と道路を歩いて来る。豊原に出るには一晩野宿しなければならない。いやしょっとするとどこかの民家に隠れるながら休み休み歩かなければ、などと考えながら、私たちは乾パン一袋ずつ渡し励ました。着の身着のまま、避難であった。

ソ連との国境では8月9日からソ連軍に越境され戦闘となり、相当の犠牲者が出たらしい。

私たちはとうとう23日にソ連軍の捕虜となり、丸3年シベリアで捕虜生活をしてきた。

この期に、戦争を風化させてはいけない。日本人は最近はどこか平和ボケしているのではと思うことも多々ある。
また、世界でいまだに戦争が行われているところもあるが、何とか世界の人々でこの戦争を止めさせるよう世界が一緒になって努めなければとおもう。

下の写真はソ連国境に接していた古屯にあった苔むした日本のトーチカ跡である。ABE-SANからお借りした。

       


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無駄遣い [政治]

橋も架かっていない、無駄な橋脚。
この橋脚鉄道線路を挟んで四基立っている。なんのための橋脚か?
多分将来のための先行投資と言うだろう。

この道路、自動車専用道路で現在建設中ではあるが、殆ど人口の多い街は完成し、運用されている。
今年初の車の走行台数調査では一日百台程度と、発表された。
調査時間10時間として平均6分に一台しか通らないことになる。まあ、平均的な
台数を書いてはいけないかもしれないが、将来、片側2車線必要になる場所とは考えにくい。

庶民の増税は都合良くやって、こんなところで無駄遣いをしている。
仮に片側2車線必要な時代が来たとき造れば良いではないか。私はそう思う。
橋の架からない無様な橋脚、よく見える。景観上もあまり良くない。

   


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