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真岡・ソ連部隊 [体験記]

 前回の記事で真岡の街はソ連の砲撃で街の姿が変わってしまった。歩兵第25連隊第1大隊は北真岡駅近くの市街の山手の荒貝沢に陣取った。

 霧の中にぼんやり見える埠頭倉庫のトタン屋根が,ぬれて、雨の後のように鈍く光っていた。

 真岡に上陸したソ連の兵力は、混成1固旅団といわれた。軽戦車二十数両と迫撃砲十数門を所有していたという。

 これだけの部隊を揚陸するソ連の輸送船団は、戦艦または巡洋艦、駆逐艦に護衛され、総数十数隻を超え威風まさに四囲を圧する大部隊であった。護衛艦の主砲は、菅原歩兵砲大隊長が20日朝、歩兵第1大隊に向かうとき、逢坂の東1キロ地点にその砲弾が落下していたといい、そのことから見て射程は一万メートルを超えるものだという。

 山沢連隊長は戦闘終結後、ソ連軍指揮官の少将に会ったとき、相手が国境を突破した部隊が先に豊原に入ったと聞き、チェッと舌打ちして残念がったのを見て、真岡上陸の部隊と国境方面から南下した部隊のどちらが先に、樺太を先に手中に納めるかを”競争意識”を持っていたようだと語っている。

 同部隊は独ソ戦に参加した部隊で、タタール人、ユダヤ人、ギリヤーク人、それにいわゆるソ連人でもシベリア地方に育った兵たちが多かったといい、ぼろ服をまとい、歩兵で武器を持たない者さえあったが、彼らは交代なしで24時間立哨できるほど鍛えられた兵でもあったという。

 以上 金子俊男著 「樺太終戦記録」より


 八重咲き宿根アスター
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 ヘレニウム(ダンゴギク)
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 ヒマワリ
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真岡・殉職した9名の乙女 [体験記]

殉職9名の乙女


 今日は金子俊男さん著の「樺太1945年夏」抜粋から
 
 宗谷海峡を見下ろす稚内の丘の上「氷雪の門」のそばに、ブレストを耳にかけた乙女のレリーフと「皆さんこれが 最後です さよなら」の文字を彫った”殉職9人の乙女の碑”がある。

 「昭和20年8月20日日本軍厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまま青酸カリを飲み、最後の力を振り絞ってキーをたたき「皆さん、さようなら、さようなら、これが最後です」の言葉を残し、夢多き若い命を絶った。戦争は二度と繰り返しまず、平和の祈りを込めて、ここに乙女の霊を悼む。昭和二十八年八月十五日」と書かれている。」

  八月が来ると、紺碧の海の向こうに、樺太の島影が浮かび緑に覆われたこの丘にたたずんで、夢大き命を絶った九人の交換手を思い二度と戦争は繰り返すまいと心に誓う人たちの姿が数多く見られる。「そのたびに”ああ、あの子の死も無駄ではなかった”と思うんです」と稚内に住む可香谷シゲさんの母親は語る。

ところでこの碑文のうち「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまま青酸カリを飲み」を強く否定する人がいる。当時、彼女たちの上司、真岡郵便局長であった上田豊蔵さんだ。

 上田さんは「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかった、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持ちで最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人達を冒瀆するのも甚だしい」という。
 

 ◆ トンボ
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 ◆ テンニンギク
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 ◆ ニチニチソウ
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 ◆ ゼラニウム
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真岡町手井 [体験記]

真岡町から


 手井駅を降りて手井の学校の体育館に泊まることになった。賄いは日本人です。なかなか手配がいいなぁとおもった。
 
 ここから3日ほど市内の焼け跡整理、毎日途中波止場を通るが死人が水ぶくれになって浮かんでいる。
 
 金子氏著によると真岡町長は他の先生方とソ連兵にとらわれ、港に連行されソ連兵に撃たれた、その数10名ほどだったという。その中で町長だけが奇跡的に一命を取り留めた。

 町長は病院に入院したが町長の話によると一列に並べると、なぎ倒すような自動小銃の乱射。町長は腰を撃たれて倒れたとき、2発目が肩に当たった。ソ連兵は倒れた町長の背中に上がって、とどめの一発を撃ったが。そのまま意識を失い後の記憶がない。どのくらいたってからか、ふと町長が気づくとたおれたからだをっめたい波が洗っていた。

 この町長の話が続けると長くなるのでこの辺で皆さん想像してください。

 ムクゲ。
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 コスモス。
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 ホオズキ。
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捕虜となる [体験記]

ソ連の捕虜となる。


 8月23日とうとう、ソ連の捕虜となった。24日午後に豊原に連行されるが途中で夜になり、野宿となった。25日昼近くに師範学校寄宿舎に到着、この建物に収用された。

 賄いを日本人がやってくれたので助かりました。何日いたのか記憶がない、たぶん1週間ほどでなかったと思います。ここから逃亡するには賄いの人にお願いして私服を用意してもらうと、ここから脱走することができます。私の知人というより会社の同期が実行しました。最近なくなったのではないかと心配しています。

 この寄宿舎を出て豊原駅に、真岡に戻るという話で、無蓋貨車に乗せられ機関車二重連で引っ張りましたが、途中でこの山を登り切れず、豊原駅に逆戻りとなり、ここで又貨車の中で野宿です。
今度は前と後ろに機関車を連結して出発し、なんとか登りきり、途中の駅で機関士が今度は「トンネルの中で列車を止めたり動かしたりするので逃げたい人は逃げてください」と叫んで歩いていました。実際3名逃げたそうです。

 逢坂を過ぎて樺太西線の手井駅に到着、手井の国民学校ともう一カ所に(場所不明)2カ所に泊まる事になりました。


 ◆ シュウメイギク。
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 ◆ テンニンギク。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 X [体験記]

第25連隊長、停戦協定むすぶ。

 8月23日連隊長の停戦協定が成立。私達は連隊本部にいたので午前8時頃、武装解除を受けた。しかし私のところに来たのは18,9才の若造で、見窄らしい格好の兵で私は腕時計をとられてしまった。

 兵隊ががあちこちに散らばっているので武装解除の連絡のため連隊本部にいた将校連中がトラックに乗って停戦のため連隊本部に集合するよう呼びかけた。第1大隊本部にいた兵は早くに最初の大隊長以下4名が武装解除せずに豊原に向かった。

 明けて24日午後、豊原に・・途中で夜になって野宿する。
人数は不明だが100名ほどでなかっかと思う。


 

 フウセンカズラ。 
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 バ ラ。 
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 ヤブラン。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅷ [体験記]

 宝台ループ線上でり攻防。
 その時尖兵が、前方200メートル付近に黒い人影を発見した。ソ連軍が偵察機からの連絡で日本軍を待ち構える態勢を敷いていたのだろう。

 滝本中隊長は直ちに前進をやめて陣地につかせるとともに工兵分隊に命じて眼下のトンネルを爆破させ、第2小隊長の片山少尉に、将校斥候として出した。

 それから約30分後、片山少尉らの進んでいった方角で銃声が聞こえた。ソ連兵と遭遇したのであるソ連軍陣地の近いことがこれによって明らかにされ、やがて戻ってきた同少尉から、かなりの兵が集結していること、さらに砲陣地であることが報告され、これを通信分隊が尾坂の連帯本部に打電した一瞬、銃砲かが集中、同小隊は通信機材とともに吹き飛ばされほとんど全員が死傷した。

 この戦闘で弾薬輸送をおこなっていた住民が指揮班の近くにいたが至近弾で1人が死亡、ほかに2人が負傷した。この戦闘で住民を含めて12名と負傷者若干。

 この戦闘は約1時間後午後2時過ぎ、わが軍が射撃を中止すると、ソ連軍の銃砲声がまもなく止んだ。私は伝令に各隊は早く休むように指示した。22日午前5時30分頃であろうか、豆腐売りのラッパのようなものが一斉に鳴り出した。途端、銃砲撃が我が方めがけて猛烈に開始された。

 やがて、倒れている私を見てかけよって来た兵に起こしてもらい指揮をとった。午前中右足をやられ、また左足、その上左手までやられたとは誠に無残な姿である。前線に連絡し状況報告させる。相当の損害である。次第に22日の夕闇が迫ってくる。そのうちに私めがけて焼夷弾攻撃をかけバリバリ音を立てて付近が焼け始めた。兵達は私を笹の少ないところに移してくれた。

 付近は真っ暗になる。全員集合をかけた。ポッポッと集まってくる。互い健在であった喜びを小さい声で語り、固い握手をする。だが私は倒れたのみ。そのとき私はこれ以上生き残ることは、いたずらに部下に迷惑をかけると思い自殺する覚悟をして背中の拳銃に手をかけようとするが取れない。五十嵐曹長それを見ると私の拳銃をとって投げてしまった。

 50名ほどの生き残りがいた。各小隊長を集合させ部隊は一応戦線を整理する目的を持って宝台駅に集合することを命じた。

 (2回目の停戦交渉の軍師も射殺されたが兵がソ連軍からの連隊長が23日午前0時までに来るようにと云う書状を持ち帰った。即23日0時を持って停戦した。)


 ハナトラノオ
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 ヘレニウム
  別名:ダンゴギク。
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 オオハンゴンソウ
  別名: ルドベキア。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅶ  [体験記]

 私は戦前生まれ、樺太育ちです。なんで終戦後戦わなければならなかったか・・・・

 皆さんの中にも体験された方が多くおられると思いますが、戦争とはどんなものか、そして敗戦とはどんなものか身を以て体験しました。

 なんだ戦争の記事か・・どうでもいいやと思われる方はどうぞスルーして下さい。なお、私が経験した以外の記事は樺太1945年夏(樺太終戦記録・・金子俊男著)やWebより転載しています。



 宝台ループ線上の攻防。
 真岡に上陸したソ連軍の主力が豊真山道の荒貝沢、熊笹峠を突破して東に向かっていた頃、真岡手井に上陸した部隊もまた山道に平行する豊真線上を進んできた。
 
 豊原、真岡を結ぶ同線は東海岸と西海岸を結ぶ唯一の鉄道である。ソ連軍がここを進んでくるとしても、線路上を歩いて来るしか方法がなくトンネルと鉄橋で阻止すれば事足りるはずであった。
 
 しかし停戦命令によってこの計画が決行されずに終わり、21日未明には予測していた通り、豊真線上を「黒い服装の大部隊」が進んできていることが、追われるようににして避難してくる人たちや鉄道員の電話で、逢坂の歩兵第25連隊本部に知らされた。

 第3大隊の第11中隊は逢坂急進の命を受け、午前4時少し前に連隊本部に着き、直ちにループ線のある宝台駅付近での仰撃の命令を受けた。同中隊はトラックで二股に引き返し、軍に協力を申し出た同地の男子に後方の弾薬輸送を頼み、車を二股地区の婦女子の避難のために残し、線路上をを歩いて宝台駅のさらに西、ループ線付近まで進んだ。

 同中隊には第3歩兵砲小隊と第3機関銃中隊の一個小隊、それに工兵分隊、通信隊が配属された。

 トラックを捨てて線路上を宝台駅まで、約4キロ、この間、中隊は執拗なミグ機の機銃掃射を浴びた。宝台駅に着く寸前のトンネルを出た地点の鉄橋上では死傷者も出た。しかもたどり着いた宝台駅付近は身を隠す物もなく、やむなくさらに800メートル程進んで、午前11時過ぎ、ループ線を見下ろす地点まで進出した。

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 ノウゼンカズラ。
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 にらの花。
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 瓢箪では?。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅵ [体験記]

◆真岡地区に上陸したソ連軍の主力が豊真山道荒貝沢、熊笹峠を突破して東に向かっていた頃、真岡手井に上陸した部隊が、山道と平行する豊真線上を進んできた。

 豊真線は真岡と豊原を結ぶ唯一の鉄道である。深い谷底を縫ってきた列車が、池ノ端駅を過ぎて、高度を高めていくループ線で、ソ連軍は線路上を歩いて来るしか方法がない。

 20日鉄道員の電話で第25連隊本部に知らされた。第3大隊の一部がループ線の近くの宝台駅を第3大隊本部とし、通信所を開設し、連隊本部との通信をおこなったところでソ連の砲弾がまともに通信所に命中通信小隊長及び兵が戦死、連絡の方法は伝令だけとなった。
 (第3大隊は私らが最初の配属先であった)。


 地 図
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 ループ線
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樺太・逢坂歩兵第25連隊 Ⅴ [体験記]

 又、軍師が射殺される。


 熊笹峠の戦闘が混乱している22日夕刻第88師団司令部より「例え捕虜となるも即時停戦せよ」との命令。玉砕を覚悟していた山沢第25連隊長はロシア語の分かる村山主計中尉を軍師とする一方、熊笹峠の第1大隊に伝えるため連隊付きの宮下安一大尉ををだした。


 しかし、宮下大尉は途中で軍使の村山主計中尉の遺体を確認し、なお進んで高地に兵が集結していた第1大隊長に連隊の命令を伝えることができた。


 その村山軍使は22日午後8時軍使としての命を受け部下4名と武装せず大きい敷布の白旗をに掲げ同20分に出発した。

 宮下大尉は午後10時頃逢坂の近くで銃創を受けた1名の兵士に出会う。その兵士は村山軍使に従って行った兵士で、軍使はまた射殺され状況を報告のため戻る途中であった。

 村山軍使以下は逢坂の西約4キロの豊真山道のカーブの地点でソ連軍の1個小隊ほどと合い、トラックを停止させられ「武器を捨てろ」と手まねし、武器を持っていないので、下車を命じ整列した5名を右から自動小銃で不意に撃ったという。左にいたその兵士は頭に弾丸を受け倒れるふりをして谷に落ち込んで脱出した。

 
 石黒連隊副官は「村山中尉ら3名は射殺され2名が助かった。そのうちの1名はソ連軍のメモを持ってきた。それによると「午前0時、ラッパを吹かせながら連隊長自ら峠に向かってくるように」と合った。山沢連隊長は石黒副官を先頭に通訳と道路上に自動小銃の間をくぐってソ連軍の指揮官らしい中佐に会った。そして23日午前2時戦闘中止を確認、ソ連軍とともに逢坂に引き返し同7時集結中の部隊の武装解除を行った。


 宮下大尉は23日第1大隊の位置を見つけ命令を伝えた。このため同大隊は夜になって山中を逢坂に集まった。



 ◆ ムクゲ。
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 ◆ コムラサキの花。
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 ◆ プットレア。
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樺太逢坂・歩兵第25連隊 Ⅳ [体験記]

 20日早朝、爆音がする。真岡へのソ連軍の艦砲射撃。
 20日早朝逢坂に爆音が届く。ソ連の艦砲射撃であった。
 艦砲射撃を加えつつ真岡に上陸してきたソ連の1個旅団が、避難中の市民に無差別攻撃。市人500人以上も命を失う。街中も砲撃され焼け野原となる。

ここでも、最後まで通信に携わっていた9人の女子電話交換手が青酸カリで自殺しています。最後の通信は北海道稚内郵便電信局の交換台に言葉を残しています。詳しく知りたい方は「氷雪の門」或いは「北のひめゆり」で検索すれば多くの記事にぶつかるでしょう。 ◆ 停戦の軍使射殺される。

 ソ連軍を上陸させ、熊笹峠に後退していた第1大隊長は師団の命令で停戦のための軍使をソ連軍に派遣するが射殺される。 以下はその状況が書き残されている。

 みんなは無言、先頭は遊佐兵長の白旗。その後に整然と隊伍を組んで進む。色々なことが脳裏を去来した。荒貝沢入り口にが近づいた。そこまでの距離は実に近く感じた。酒屋があり、付近には民家がまばらにある。無論人影どころか犬1匹見えない。

 前方の様子が分からない。停止した副官は眼鏡を撮りだしてみたいたが、右手の小高い丘には何も見えない。前進、30mほど進んで鉄道踏切に差し掛かった時、突然、その丘の上にソ連兵が姿を現し、軍使の停止を求めながら近寄ってきた。

 分隊は踏切の上にいた。副官は白旗の遊佐兵長、中前軍曹、通訳の金山軍曹とともに前に進み出た。分隊との間隔10mほど。副官は通訳を通じて話している。指揮官との会見を求めたのであろう。私たちのところからは何も聞こえない。

 軍使を取り囲むようにして、10mほど手前で一旦止まったソ連軍は、銃をそこに置けと要求、村田中尉の指示で一行は道路端に叉銃すると、同行している軍犬もそばの電柱に縛るよう要求、その指示に従った。こうして武装を解いた後ソ連軍が近づいてきた。

 軍使の申し入れに対し、ソ連軍は受け入れる様子がなく、一人のソ連兵が銃を構えて立ち撃ちの姿勢をとった。副官は胸元の銃口を手で横に押しやって尚話をする。金山軍曹のが懸命の通訳をしていた。その時、先程のソ連兵が突然副官の体に銃口を向けるなり銃を乱射した。

 「伏せろ」、誰かの声で、私は副官の倒れる姿を見ながら線路脇の排水溝に飛び込んだ。ソ連兵が最初の乱射と同時に駆け集まって、自動小銃を構えて一斉に撃ち始めた。

 私は小銃をとって排水溝を30mほど走った。溝の横が小高くなっているので、ソ連兵の位置から死角になって気づかなかったのだろう。そして、更に走って小山に登り、防空壕を見つけて飛び込んだ。ところがどうだろう。現場から50mほどの壕内に逃げ遅れた住民が入っている。北の方から来た避難民であった。銃声が止むのを待って「夜になったら部隊のいる方に逃げてくるように」言い残し、夢中で本部に向かって走った。

 私は状況を報告した。仲川大隊長以下その時の顔を覚えていない。20分ほど遅れて遊佐兵長、太田上等兵が負傷し、血みどろになって帰ってきた。大隊長はこの時、初めて戦闘の腹を決めたのだろう。
 この模様を第1大隊長から25連隊長に報告し戦闘開始する。



 ◆ 紫陽花。
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 ◆ ヘリオプシス。
 キク科ヘリオプシス属。 多年草。北アメリカ原産、明治中期に渡来する。
 「ヒメヒマリ」「キクイモモドキ」の別名がある。
 非常に丈夫な植物で病害もなく日当たりの良い場所を好む。
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 ◆ ニワウメの実。
 バラ科  果実はほぼ球形、大きさは1センチ。
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