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終 戦 Ⅲ [体験記]

昨日は少し日中の温度が下がった19度とか。

今日も同じらしいですよ。

さて今日は国境および北部を守っていたのは歩兵第125連隊のお話です。


 歩兵第125連隊の行動
 樺太終戦記録・金子俊男著

 7月に入ると、ソ連軍の動きは、侵攻必至と判断しないわけにいかないほど活発になった。
 ある朝、山頂で望遠鏡をのぞいた日の丸監視哨の兵隊は愕然色を失った。それまでオノール付近の山陰からチラット姿を見せる戦車を先頭に自走砲など機甲部隊が国境へ向かい一斉に南下を始めているのだった。
 
 内路など各地で陣地構築に当たっていた歩兵125連隊の第1、第3大隊に直ちに国境に向かうよう命令が飛んだ。が、国境近くまで進んで森林に入ったソ連軍は、ぴたっと停止したきり。
 そして翌朝進行の火ぶたを切るに違いないと、息を殺して行動を見守っている日本軍の前を、夕刻、何事もなかったかのようにオノールの方向に立ち去った。

 ほっとするとともに、ソ連が地続きの国境を突破して進行するときは、100%疑う余地のない自室と判断しないわけにはいかなかった。

 鈴木参謀長はその週だけで3回、第5方面軍司令部の作戦、情報参謀に電話でそのことをいい、師団は全力をソ連に向けるべきだと意見を述べたという。

 軍司令部から「ソ連侵攻し来たるときは、樺太兵団はこれと対戦するものなり」と命令電報が届いたのは、月が変わった8月3日午後4時。実際にソ連軍が行動を起こした日の6日前である。

 南(対米)を兵団は、ソ連の侵攻前ぎりぎりでかろうじて頭だけを北に向けさせることができたことになる。歩兵第125連隊長は、北地区守備隊長になり、師団直轄の特設警備隊や国民義勇戦闘隊を含めて指揮する権限、支庁長と相談、法人の避難の指示などをする指揮する権限もむ付与された。しかし、対ソ作戦に転換した直後で、師団参謀部は邦人の避難などについての構想を持っていたが、現地の守備隊長にはまだ具体的なものはできていなかったし、予想よりも早く侵攻が開始されたこともあって、国境地帯石灰山働く作業員を避難命令を9日朝早く出したにとどまった。

 邦人はこのため混乱したが、満州での関東軍がなすところなく邦人とともに雪崩を打って敗走したあのような悲劇を樺太で防ぎ得たのは兵団が心の準備ができ来てだけでもできていたためである。

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 次回に続く 



捕虜時代 [体験記]

3日もブログ休んでしまいました。入院をして健康診断をしていました、お陰で85歳年相応の体だそうです。私が気になったのは、5年以上も大腸検査していなかったので、ポリープができ大きくなってがん化して、また大腸手術なんて事になったら・・というのが心配でしたが先ずはポリープはありませんでした。

写真の在庫がないので、私が捕虜時代にシベリアに渡った時の事を少しだけ書いてみたいと思います。


 ◆ シベリア沿岸地図 
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 ◆ 現在のワニノ港。(グーグル地図) 
ワニノ市街は写真の左端と左上、現在人口4万人。写真を見てずいぶん変わったと思っています。
ホルムスクとの間で貨車航走が行われており、
線路幅が違うのでホルムスクには車輪の取り替え工場があって車輪を取り替えて走っているそうです。
ワニノ港から、日本に木材が相当量輸出されています。
写真の入り江の左下の海岸沿いに薄茶色に見える部分は全部丸太です。
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1945年9月初旬、サハリン(樺太)ホルムスク(真岡)よりシベリアへ、貨物船に200人ほど乗せられ、ワニノに夜中に着き港内で朝まで、埠頭には線路が敷かれていた。そして貨車に乗って動きだしたのは午前10時頃だと思います。何しろロスケの兵士は泥棒と同じで武装解除のとき全部私物は略奪されてしまったので時計の持っているものはいない。

薪をたいて走る小型の機関車、せいぜい30か25キロ位のスピード、12時ころ、半分の人数が降ろされ、ここで昼食、1時間ほど休み、出発し、着いたのは午后4時ころでなかったかと思います。何しろレールと枕木は道床の上に敷いてあるだけ、砂利が一つも入っていないのには驚きました。途中で炭水車に積んでいる燃料の薪に火がつきぼうぼうと燃え出す始末。

次の日から早速重労働、なんと砂利を積んだ列車が入ってくると夜昼かまわず、貨車から砂利降ろし、そして、枕木の下に敷いてレールの水平をとる。監督はたった一人、監視兵は2人、通訳は一緒に来た将校(中尉だったと思う)一人、外の将校5人ほどは労働なしで宿舎も違う。国際捕虜条約でそうなっているそうです。我々も労働させるには金銭を払わなければいけないが、1年間はこの労働で、ただ働き。

もっとも、金をもらっても使うところがありません。それでも、2年目から賃金から食料代を引いた分はもらいました。でも、帰還の時全部没収されました。

作業の辛さか、一人が途中で夜中に脱走する、逃げて何処へ行くつもりか?多分のたれ死にか、掴まったか、また一人はパン工場に入りパンを泥棒しようとして、捕まる。夜中に銃の発射音で目を覚ます。病人は出る、我々の収容所で10人が出たのではないかと思っています。  

われわれの中に軍の特務機関の将校が潜り込んでいましたが、この方も2年目に入ってから、ソ連兵にどこかへ連れて行かれてしまう。

丁度1年ほどで完成、大きな機関車が単機で試運転していました。レールはカナダ製、砂利を積む貨車はアメリカ製でした。機関車には自動連結器とチェン連結の両方ついていました。われわれの乗った無蓋貨車はチェン連結でした。

この線路はバム鉄道(シベリア第2鉄道)の一端で、コンソモリスク・ナ・アムーレの対岸からソヴェツカヤ・ガヴァニまで、完成したのは1943ー46年、ソ連囚人とドイツ兵捕虜で出来上がった鉄道で日本兵捕虜もその一端を担っています。コンソモリスク・ナ・アモーレから途中ツンドラ地帯を抜け、バイカル湖の北側を通りシベリア鉄道に繋がっています。完成は1984年だそうです。

私の復員したのは1948年(昭和23年)6月でした。命拾いをして帰ってきました。
タグ:捕虜時代

ソ連との戦い その3 [体験記]

◆ その後、第1大隊は接敵行動に出る。
余談だが、ソ連兵は国際条約も知らない田舎の兵隊。白旗を掲げて停戦交渉に出た軍使を銃撃するとは前代未聞である。ま、戦争というのはこんなものかも知れない。

第1大隊長はその後、接敵行動に出る。21日まで交戦が続く。23日やむを得ず、第88師団参謀以下、第25連隊長自ら停戦交渉に出向き、ようやく停戦となる。交渉に出向く隊列を私たちは見送った。この隊列の中には私たちの通信中隊長も含まれていた。



◆ 真岡市街に駐留していた一部の小隊で残ったのはたった3名。
話は後先になったが、15日、真岡市街から一部の隊を残して熊笹峠に撤退したが、その市街に残っていた小隊はソ連部隊と衝突交戦するが、結局鉄道線路沿いに、撤退、21日、連隊本部までたどり着いたのは3名であった。そして、真岡周辺では民間人約500名死亡以上、軍人約100名以上戦死と記録されている。


 ◆ トチの実。(トチノキ科トチノキ属) 
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        ◆ 花名不詳。
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◆ 24日、武装解除。
停戦交渉に出向いた将校はそのまま、捕虜。私たちは24日武装解除。26日、ソ連兵の監視下で札幌に向かい28日、豊原師範学校女子寄宿舎に多分4日ほどいたと思う。ここから脱走した兵士も2ね3名いる。何と日本民間人の賄い、であるのでその方から私服を差し入れて貰えば、逃げるには簡単だった。

後にここから列車に乗って真岡に・・蒸気機関車は2重連で引っ張ったが、貨車の重いので途中でストップ、引き返す。翌日今度は前と後ろに蒸気機関車を繋ぎ、ようやく真岡に到着する。この間でも3名ほど貨車より脱走。何しろ、蒸気機関車の運転士は日本人、駅にはいると、機関士が降りてきて、次のトンネルで列車を止めるので逃げろと合図をする。

真岡から沿海州ワニノに到着、船に乗っていった捕虜は2カ所に別れる。私たちは1年間鉄道建設。何しろ、道床に線路を引き、薪をたいた蒸気機関車が走っている。この1年の間に栄養失調による余病で相当な数の方々が亡くなったし、私は丸3年も捕虜生活を強いられることになる。



◆ 私の見解。
ソ連は確かに火事場泥棒。これだけは確かで、頭がいい。現在のロシアもだが・・・、大東亜戦争たるこの戦争は、日本の覇権主義から起きたもの他国を恨んではいけない。そもそも昭和の初め頃の不況時代から始まっている。その頃、軍部の台頭し始まった。そして満州事変へと続く・・・


◆ 体験記事今日で終わります。ありがとうございました。

ソ連との戦い その2 [体験記]

◆ 歩兵第25連隊司令部、逢坂に転進する。
9日のソ連の宣戦布告で、第25連隊司令部は逢坂(真岡と豊原を結ぶ鉄道の駅で樺太山脈の頂上というと大げさだが、鉄道の一番高いところだ真岡の街は見えない。)に転進、真岡に第1大隊を移動させ、警備をしながら町民を海から、陸から避難誘導など行う。15日の終戦に伴い、師団からの命令で一部の小隊を残し熊笹峠に後退していた。

私たち分隊長以下10名は15日(終戦の日)夜、逢坂へ移動命令、弾薬を積んだトラック2台に分乗、16日朝、逢坂に到着、連隊司令部付きとなる。通信中隊長や見習士官たちと約半月ぶりに・・・。

17日にはソ連偵察機が偵察飛行、早速洗礼を受ける。外にいたわれわれを見るなり機銃掃射、慌てて松林の中に隠れる。この時「たこつぼ」に入った年配の召集兵が負傷する。上から見ると「たこつぼ」はまる見えの筈です。

逢坂を通る国道で20人ほどの避難する婦女子2組と逢う。列車が途中まででも通っていればいいのだが、鉄道は不通になっている。「豊原までは一晩野宿しなければ着かない道のりだ、でも、子ども連れ、これは何日で着くか分からない。ま、途中、たくさん民家もあるので何とか避難できる筈」と励まし、乾パン1袋ずつ渡して送り出す。



◆ 私も巡回中に、ソ連偵察機に発見され、銃撃を受ける。
19日、分隊手分けをして電話線路の巡回中、畑の中を歩いていると20mほど手前から、土煙が上がると同時に飛行機の爆音、「機銃だ!」と咄嗟に身をかわそうとする間に2m手前で土煙が消えた。横上を見るとソ連機、顔がはっきり見える。ソ連機自体、もう少しで低いと地上に。お互いこれで助かった。この時間、たった2、3秒の出来事。慌てて銃を撃つがもう間に合わない、自動小銃ならいざ知らず、単発銃だ。


◆ 20日早朝、爆音がする。真岡へのソ連軍の艦砲射撃。
20日早朝逢坂に爆音が届く。ソ連の艦砲射撃であった。
艦砲射撃を加えつつ真岡に上陸してきたソ連の1個旅団が、避難中の市民に無差別攻撃。市人500人以上も命を失う。街中も砲撃され焼け野原となる。ここでも、最後まで通信に携わっていた9人の女子電話交換手が青酸カリで自殺しています。最後の通信は北海道稚内郵便電信局の交換台にある言葉を残しています。詳しく知りたい方は「氷雪の門」或いは「北のひめゆり」で検索すれば多くの記事にぶつかるでしょう。



◆ 8月11日に函館山裾の家屋に咲いていた紫陽花。
 ◆ アジサイ。(ユキノシタ科アジサイ属) 
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◆ 停戦の軍使射殺される。
ソ連軍を上陸させ、熊笹峠に後退していた第1大隊長は師団の命令で停戦のための軍使をソ連軍に派遣するが射殺される。 以下はその状況が書き残されている。

みんなは無言、先頭は遊佐兵長の白旗。その後に整然と隊伍を組んで進む。色々なことが脳裏を去来した。荒貝沢入り口にが近づいた。そこまでの距離は実に近く感じた。酒屋があり、付近には民家がまばらにある。無論人影どころか犬1匹見えない。

前方の様子が分からない。停止した副官は眼鏡を撮りだしてみたいたが、右手の小高い丘には何も見えない。前進、30mほど進んで鉄道踏切に差し掛かった時、突然、その丘の上にソ連兵が姿を現し、軍使の停止を求めながら近寄ってきた。

分隊は踏切の上にいた。副官は白旗の遊佐兵長、中前軍曹、通訳、金山軍曹とともに前に進み出た。分隊との間隔10mほど。副官は通訳を通じて話している。指揮官との会見を求めたのであろう。私たちのところからは何も聞こえない。

軍使を取り囲むようにして、10mほど手前で一旦止まったソ連軍は、銃をそこに置けと要求、村田中尉の指示で一行は道路端に叉銃すると、同行している軍犬もそばの電柱に縛るよう要求、その指示に従った。こうして武装を解いた後ソ連軍が近づいてきた。

軍使の申し入れに対し、ソ連軍は受け入れる様子がなく、一人のソ連兵が銃を構えて立ち撃ちの姿勢をとった。副官は胸元の銃口を手で横に押しやって尚話をする。金山軍曹のが懸命の通訳をしていた。その時、先程のソ連兵が突然副官の体に銃口を向けるなり銃を乱射した。

「伏せろ」、誰かの声で、私は副官の倒れる姿を見ながら線路脇の排水溝に飛び込んだ。ソ連兵が最初の乱射と同時に駆け集まって、自動小銃を構えて一斉に撃ち始めた。

私は小銃をとって排水溝を30mほど走った。溝の横が小高くなっているので、ソ連兵の位置から死角になって気づかなかったのだろう。そして、更に走って小山に登り、防空壕を見つけて飛び込んだ。ところがどうだろう。現場から50mほどの壕内に逃げ遅れた住民が入っている。北の方から来た避難民であった。銃声が止むのを待って「夜になったら部隊のいる方に逃げてくるように」言い残し、夢中で本部に向かって走った。

私は状況を報告した。仲川大隊長以下その時の顔を覚えていない。20分ほど遅れて遊佐兵長、太田上等兵が負傷し、血みどろになって帰ってきた。大隊長はこの時、初めて戦闘の腹を決めたのだろう。


◆ 明日に続く。

ソ連との戦い その1 [体験記]

今日は8月15日、64回目の終戦の日ですね。今年も書くことにしました。
私は戦前生まれ、樺太育ちです。この日は忘れることがありません。なんで終戦後戦わなければならなかったか・・・・

皆さんの中にも体験された方が多くおられると思いますが、軍隊とは、戦争とはどんなものか、そして敗戦とはどんなものか身を以て体験しました。
なんだ戦争の記事か・・どうでもいいやと思われる方はどうぞスルーして下さい。なお、私が経験した以外の記事はWebより転載しました。



◆ わが家の花から。
 ◆ ニラの花。(キク科ネギ属) 
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 ◆ ヒャクニチソウ。(キク科ヒャクニチソウ属) 
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◆ 樺太の軍隊の状況。
樺太防備の当時第30国境警備隊、歩兵第25連隊、歩兵第125連隊を基幹とする樺太混成旅団が編成されていましたが、記録によると2月28日に、これに歩兵第306連隊が豊原に新たに作られ、兵員約20200名による第88師団が編成されました。そしてその上部部隊は第5方面軍(札幌)。

師団隷下、歩兵第25、125、306連隊、師団通信隊、第88山砲、第88輜重、第88工兵連隊です。空軍機、戦車などはありません。

私は歩兵第25連隊通信中隊に4月入隊した。6月に中隊の中で20名ほど転属、その後、初年兵が入隊する。7月に初年兵の教育斑を残し、上敷香より第25連隊の各地展開と共にわが通信中隊も各分隊毎にばらばらに移動する。

第125連隊は国境及び樺太北部(真逢ー久春内以北)に展開、第25、306連隊を米軍上陸を警戒して南部に展開させる。第25連隊の司令部は落合に、私たち1個分隊は配属された中隊とともに大泊よりまだ南西、留多加で警備につく。

私たちの任務は結局、留多加郵便局の電話交換手と一緒に軍の電話交換業務、日中1名、夜1名。後は日中警備。



◆ わが家の花から。
 ◆ 宿根リナリア。(ゴマノハグサ科リナリア属) 
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◆ 樺太北部での戦闘。
ソ連は8月8日日ソ不可侵条約を破棄、9日宣戦布告する。まず9日に国境警備隊に加えられた砲撃であるがその動きは緩慢であったそうだ。11日にソ連軍が本格的に侵攻してきた。ルートは2ルート、しかし、ツンドラ地帯で戦車や重砲などは通行可能なルートが限られ、国境警備隊と歩兵第125連隊2小隊100人が抵抗、敵1個軍団を丸1日食い止める。その殆どが戦死。一方国境より10キロほど後方で第125連隊が挺身奇襲攻撃などで15日まで敵の進撃を阻む。

16日に西海岸北部、恵須取の町を海から攻撃一度撃退するが、二度目の艦砲射撃、ソ連機による無差別攻撃があり、とにかく住民の避難確保。太平洋炭鉱病院看護婦が集団自決するなど。18日に戦闘中止命令が出るが、連絡を受けた部隊から順次解散する、翌19日、第五方面軍から自衛戦闘継続の命令が出る、実質的に、残った部隊が戦闘継続していたようだ。



◆ 明日に続く。

捕虜体験記 7 [体験記]

 ◆ ポインセチア  トウダイグサ科   ユーフォルビア属




 ◆ 捕虜体験記 ・・最終回・・ 

多分7月に入っていたと思う、講習も終わり、ソ連側から「ダモイ」の命令が出た。考えてみれば捕虜になって丸三年近くである。良くここまで生き延びれた者だなと自分ながら感心した。そして、うれしさがこみ上げてきた。

当日朝、駅に集合したら、中に将校もいた。講習を受けていた時は見受けられなかった者もいた。結局は共産主義教育を受けた者と受けていない者、そして、将校の団体となった。

またもや貨車である。それでも、今までより幾らかよい待遇だ。有蓋貨車だ。貨車の中は扉を真ん中に両端が即席に作ったのだろう、二段になっている。一段に4人だったと思うが一両だと16人乗っていたことになる。10両以上連結されていたようだったので、200人は乗ったのでないかと思う。どこからこんなに集まったのだろう。

いよいよ発車、われわれの収容所も通過、着いたのは「コンソモリスク・ナ・アムーレ」の対岸。「コンソモリスク・ナ・アムーレ」の街は、かすかに見える。嘘か本当か分からないが、冬になるとアムール川の凍結時と融解時は交通途絶になるという話は聞いていた。

列車は一両ずつに切り離され、船にクレーンで積み込まれる、船底にはレールが2列に引かれていて、そこに降ろされる。

船が対岸「コンソモリスク・ナ・アムーレ」に着くと、機関車で船から引き出された。昼食後早速出発する。いま、シベリア第二鉄道を走って南下している。と、右手にシベリア鉄道。それから、20分ほども走ったろうか、ハバロフスク駅到着する。通過して、操車場に入る。もう夕暮れだった。ここで一晩明かす。

翌朝出発、今度は各駅停車である。駅といってもホームなどはない。

われわれの貨車にはいなかったが、すっかり洗脳されてしまった者もいたようだ。停車する度に、将校を自分たちの貨車に連れ込み、吊し上げを行っていた。別に将校が悪かったわけでもないのにかわいそうにと思ったが、どうすることも出来ない。何しろ、狭い貨車の中でのこと。

明るいうちに、最終地の「ナオトカ」」に到着する。ここで、3日ほど船を待つ。

いよいよ乗船、もう気持ちは先に日本に着いていた。船の中では日本共産党入党勧誘が始まる。入った人もいたようだ。先に書いたような人たちだろう。といっても、入党したからといっても別に悪いわけでない。人それぞれの考え方だ。

舞鶴に到着、下船するが、私は米軍の簡単な取り調べとなった。働いていた場所など五項目ほど聞かれた。抜き打ちで行ったのだろう。

ここで終わります。

<追記>  8日にわたってソ連捕虜としての体験を拙筆で長々と書きました。読んでいただいた方々に感謝します。

ソ連の後継国ロシア政府も信用できない、サハリンで石油開発を行っている「サハリンエナジー社」の株を石油輸送パイプ施設工事に対し環境汚染問題で因縁をつけ、工事禁止の処分などを行い、ロシアの「ガスプロム社」に「サハリンエナジー社」の株50%を譲り渡すことになった。これは、合法的なことなので非難すべき事ではないが、いずれ全部経営権はロシアのものとなっていくのではないかと思っている。株は「シェル」「三井物産」「三菱商事」三社が100%所有していた。

今朝の北海道新聞から。



捕虜体験記 6 [体験記]

 ◆ ナナカマド 
葉が散り、実だけになっています。




 ◆ 捕虜体験記 ・・6・・  

楽しみは日曜日の休みだけだ。白樺の木で麻雀杯を作った人がいた。二卓ほど作った。木は幾らでもある、また鋸、鉋などもあるが、手元には置いてない。まず、彫刻刀はどうやって手に入れたのか、分からないがこつこつと作り出した。

結構な麻雀杯だ。麻雀の知らなかった人も、自然と覚えていった。いわゆるシベリア麻雀だ。確か一年ほど経ってからだと思うが「たばこ」の配給もするようになった。

二年目の冬近くであったと思うが、金を支払うようになった。いわゆる、ルーブル紙幣、たいした金額はないが、働いて得た金額から食事代を差し引いた金額だそうだ。

毎月金額が違う、分かるような分からないような。ノルマによって違うのだろう。こんな紙幣貰っても使い道がない、そこら辺に店があるわけでもないし、第一、勝手に出歩けないからだ。

記憶がはっきりしないが、三年目に入ってからだが、収容所から私を含む30人ほど指名されてトラックに乗せられた。行き先は示されなかったが南に向かった。

「ソヴェツカヤ・ガヴァニ」の町だった。この街のはずれにある収容所に入れられた、どこから集まったのか捕虜たちが沢山いた。一時どうなるんだろうと思ったが、次の日から共産主義教育である。

「日本の現状」、「共産主義」、二冊の新品教科書。今のアート紙をちょっと薄くした紙に日本語で印刷され写真もついて製本されている立派なものだ。これはソ連か満州で日本人の共産主義者が編集したものだと思う。

三ヶ月だったか四ヶ月だったか記憶が定かでなくなったが、とにかく、日曜日を除く毎日、講義が続いた。講師は日本人だ、こちこちの共産主義者だろう。午後からは毎日自己批判。

「共産主義」の中で「資本論」も簡単に習った。いや、確かに「共産主義」はご最も、これが実現できれば、夢のような話。みんなが平等に生きて行ける。だが現実のソ連は「社会主義」だ。

「資本主義」は簡単に言うと、働く者からの搾取で成り立ち、金を持った者の勝ち。「社会主義」はどうだろう、やはり同じじゃないだろうか。上の者はいいものを食べ、いい処に住んで、好きな処で遊んで。その「社会主義」からどうやって「共産主義」に移行できるのだろうか。

この世に存在する生物は、意識、無意識は抜きにして「欲望」がある。この「欲望」をどうやって断ち切るのか。そこのところが分からない。

「社会主義」とはいえ、ご本家のスターリンはどんな生き方をしてきたのだろう。「共産主義」など空論に過ぎない。しかし、こんな事をここで言えるわけがない、下手すると、自分がどうなるか分からないからだ。兎に角この場を乗り切るだけだ。そう結論づけた。

歴史が物語っている、現実に「社会主義国」から「共産主義国」移行できた国はあるでしょうか。



次回で終わります。


捕虜体験記 5 [体験記]

 ◆ 捕虜体験記 ・・5・・ 

次に困ったのは浴場がない、捕虜になってから風呂に入っていない。考えてみれば、20日近く入っていない。もう10月始めだが、暖かい日には昼休み中、現場でたき火をしながら裸になり、たき火に下着をかざす、見事に「しらみ」退治の効果があるが、全滅させることは出来ない。(ここは冬が寒いが夏は結構暖かい。大陸性気候というか)

交代でミニサウナと言ったらいいのか、30分ほど歩いたところに変わった建物があり、部屋順で1週間に一度、行くことになった。

中は石を焼く装置があり、焼けた石にお湯をかけ湯気を上げる単純なもの。こんなもので体が温まるものではない、ただ、体を拭いてくる程度。その間に土饅頭型の大きな釜の中に入れておくと熱風(約90度)で「シラミ」を殺すという算段だ。下着は各自、代わりを持っているので、着替えて自分のものは持って帰って洗濯するというわけだ。

冬は帰って風邪を引きそうになる。翌年春まで続いたが、「しらみ」退治は完全に出来なかった。

その後下着は全部取り上げられ、新しいものが支給され、次は洗濯されたものが支給されるようになった。ようやく「しらみ」退治が出来た。

兎に角、腹が減る、「まむし」取りの名人がいる、皮剥いてたき火で焼いて食べると至極美味しい、栄養があるし、身欠きニシンを食べている感じだ。冬は出来ないが、これが一番だった。いま、食べれるかなぁ・・・。

そのほか、何で行ったか記憶がなくなったが、海岸に行ったことがある。帰りに浜辺で「テングサ」をとって来て、煮て食べたこともある。「きのこ」も食べた。口に入るものは何でも食べた。

極限の生活だ。お上品にしていると死ぬことになる。それでも、線路工事が終わってからは、作業も楽になり、食べ物も幾らか良くなった。

秋にはコルホーズの馬鈴薯掘りの手伝いに行ったこともある、持って帰ることは一個たりとも許さないが、昼休みに焼いて食べるのは幾ら食べても文句が出ない。

電柱建てをしたことも、ログハウスを建てたことも、そうだ、忘れてた、冬の寒い日に石掘りをしたことがあった。マイナス30度を超えると作業休みになるが、少しでも高いと作業である、鼻だけは隠すわけにはいかない、鼻が真っ白になって半凍りになったことが数回あった。

冷たい話は、もうこの辺でやめておこう。

ここへ入って一ヶ月程たった時のある日、一人脱走した、随分監視の兵士が探していたようだ。日本の地なら別だが逃げ追うせるものではない。第一食べるものがない、これから寒くなる、逃げ得たところで日本には帰れるわけもない。捕まれば逃亡罪で監獄行きだろう。私は監獄行きの方が生き延びる可能性が高いと思うが・・・。

また、こんな事もあった。

夜中に銃の音、何ごとか思ったら、下のパン工場に忍び込んだという。夜中にパンなど工場に置いておくなど考えられない。あってもパン地だけだろう。とうとう敷地内で捕まる。早速どこかに送られた。裁判でおそらく監獄行きとなるだろう。

われわれの中に、軍の特務機関の士官がいたが彼の話によるとこの鉄道工事は昭和18年にもう軍は知っていたという。そんな話をしていたが、彼も約一年後に何処へともなく連れて行かれた。多分スパイ罪で裁判ではないか? だれか、たれ込みでもしたのだろうか。

この鉄道の建設は地図を見て分かるとおり、「ソヴェツカヤ・ガヴァニ」は「ウゴレゴルスク」(恵須取)と真向かいになっている。日本目当てではなかったと思う。






つづく。


捕虜体験記 4 [体験記]

 ◆ ヒメリンゴ 
ヒメリンゴもすっかり熟し、握ると潰れてしまいます、最近は凍っています。




 ◆ 捕虜体験記 ・・4・・ 

記憶によれば、一番下にあった建物はパン工場、ちょっと上り坂を50メートルほど登ると、山を切り崩した平地があった。そこには、私たちが入る建物、5棟ほどあり、ちょっと離れたところに、日本の将校たちが入った建物1棟、ほかに監視兵たちが住んでいる建物、炊事場、講堂などあったと記憶しています。柵などなく、監視兵が立つ塔もあった。

日本の将校は国際条約で、労働させない規則になっているので、毎日何をしていたか私には分からない。後で分かったことは将校の一人が片言ロシア語ができたので、通訳をするため作業現場に出ていた。

さて、起床・6時半、点呼、朝食、昼食持参、8時・作業開始、実働8時間、帰って19時・夕食、点呼、21時・就寝というのが原則サイクル。と記憶している

監視の兵隊は人数の掌握が仕事、監督は作業の指示と進捗状況の把握が仕事、そこは日本で行われた捕虜の待遇とは違いがあるが・・・。でも大して変わらないか。

さて本題に入る。仕事は自分たちが通ってきた、鉄道線路の枕木下の砂利つめ、線路のでこぼこを無くする仕事。毎日砂利を運んでくる貨車から降ろすことから始まる。スコップ一丁での仕事だ。そして、夜中でも列車が入り、私たちのいる場所に止まりその貨車に乗って降ろしてくるという夜中まで使われた。翌朝、そこでの作業、遠くなると歩くのが仕事のようになってゆく。

砂利おろしも大変だが、これがもし、「日本人捕虜がスコップで跳ね上げて積んでいるのであれば本当に辛かっただろうな」と思いながら砂利おろしをしたものだ。冬になったら砂利の表面が凍って降ろすのも大変だった。

軍隊で鍛えた体だから少しくらいの労働は別段大変な仕事とは思わないが。困ったのは食事。それとノルマ。達成しなければ食事に影響してくる。ソ連の体制はよくいう「働かざる者は食うべからず」だ。

米はお粥、黒パン、そして、塩魚。野菜などは余程でないと出てこない。これが毎食ならまだいい、昼は黒パンと水、そして米が無くなったら、今度はコウリャン、ご存じでしょうか、満州などで取れた穀物だ。ノルマの達成状況によってこのお粥が変化、パンの目方も変わってくる。

4ヶ月ほどですっかり痩せてしまった。中には栄養失調で余病を併発、入院するが治る人はほとんど無し、亡くなっていった。

私たちが携わったところの鉄道線路のレールはどこの国のだと思いますか、全部カナダ製、砂利を運んでくる貨車はアメリカ製でした。

この仕事は一年近く続く。完成したら大きい機関車が試運転していた。この鉄道、ソ連の囚人、そして、ドイツ兵捕虜、日本兵捕虜によって出来上がったようなものだろう。

<追記>   私たちが滞在していたところは、はっきりと分からないが、地図の「ソヴェツカヤ・カヴァニ」から太い線で描かれているのが鉄道線路。

私たちが居住していたところは、北の海岸よりに「ダッタ」の町の左上に「トウムニン川」と書かれている「ニ」と「ン」の間の線路の左側付近ではないかと思う。

この北側の「コンソモリスク・ナ・アムーレ」は黒竜江(アムール川)の対岸で、ここから北に延びているのはシベリア第二鉄道(バイカル湖の北側を走っている)、「ハバロフスク」から西側に延びているのはシベリア鉄道、「ハバロフスク」から南に「ヴラジヴストク」と「ナオトカ」に通じる。



つづく。


捕虜体験記 3 [体験記]

 ◆ ゼラニウム。      フウロソウ科   ベラルゴニウム
わが家の鉢植え





 ◆ 捕虜体験記 ・・3・・  

夜遅く、港の沖に停泊。この日は船の中で一泊。翌朝岸壁に繋留された。船の中で朝食を取る。船上で沖の方を見る、両側に山並みが遠くまで続いている、この港は陸地の奥まったところだな・・。これが第一印象であった。

岸壁には鉄道線路が3本敷かれていた。そのうちに、無蓋貨車が入ってきた。いよいよ、船から降ろされ、積んできた食料も貨車に積まれ、われわれも乗るよう命じられる。

いま何時頃だろうか、いよいよ発車した。一番困ったのが時間だ。何しろ、武装解除の時、貴重品は全部没収されていた。やはり、盗人の国の兵士も盗人ばかりのようだ。

先頭の機関車は薪を焚いているのか炭水車に薪が積んでいる、小型の機関車ではないか。

いよいよ発車する。遠くまて左側には山並みが続いている。のっこらのっこら1時間半ほど走って、駅もないところに止まった。ここで半分人間と食料半分、降ろされた。この人たちは何処に連れて行かれるのだろうか。

よくよく線路を見たら砂利の入っていない道床の上に枕木、レールが敷かれているだけである。そしてここで昼食となるが、ロシアの不味い黒パンである。

それから何時間か列車に揺られながら・・・、機関車に積んでいる薪に火がついて煙が上がっている、大騒ぎとなり、列車が止まり機関士が火を消し、また走る。よくよく見れば、機関車の煙突から火の粉が出ているのであった。

間もなく、また列車が止まる。ここで降りろということだ。よく見ると100メートル先の山あいの左側に建物が沢山見える。もう、3時頃ではないかと思う。積んでいる食料を降ろし、運ばされる。そして、建物に分散して入った。

とうとう、着いたか・・・

明日から、辛い生活が待っているのだろう・・・・。




                                                           つづく。      

  


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