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真岡・絶望の逃避行 ① [記事]

 絶望の逃避行

  田中俊男著 樺太終戦記録より抜粋しました。
 死の恐怖におびえながら、町にとどまって人たちとは別に、不気味な砲声に追われるように豊真山道(豊原ー真岡の道路)などを逃げた人々もまた死に勝る苦労をしたのである。避難民の数は15,000とも18,000人とも言われた。真岡から豊原方面に抜ける豊真山道の入り口は、町の北の外れにあったため、昭和18年、真岡林務署が、南の金田の沢から入って逢坂に抜ける”避難道路”をつけたいた。西村宗信(元真岡林務署林産航空油主任)は、「私が造林主任だった昭和18年、細越業務課長の発案で、敵が上陸したときに備える避難林道を造った。初め真岡沢を起点にしようかと思ったが、急峻なため金田の沢に変更した。幅1.2メートル、延長15キロ、道はつけたものの、翌年からは維持費がつかずあれるに任せ、私自身も忘れていたが、真岡最後の日に思い出した。

 使用されたのはわずか一日だけであったが、数千の人たちの生命がこの避難林道によって救われたことの喜びと悲しみ、私は生涯忘れることができない、20年たった今、あの林道は白樺やとど松が密生し、もはや熊も通る路もないであろうが・・・・」と語っている。
 西村さん自身もこの道を避難したのである。西村さんは避難林道を逃げたときの状況を次のように語っている。

 バリバリと脳天がさけるばかりであった。空襲ーー私は、直感的に妻を引っ張るように前の防空壕に前の防空壕に飛び込んだ。10秒、20秒壕の中で私は不安に襲われ、妻の制止も聞かず、顔を出してみると、海からも銃砲声、壕がときおりズシーンと揺れる。しかし、天地を引き裂くような銃砲声の中で、この南浜町は道路にも官舎街にも人影一つ見えず、不気味なほど静まり帰っている。

 みんな私達だけ残して、逃げ去ってしまったのだろうか。今ソ連兵がやってきたら身を守る小刀とてない---逃げよう。妻は手術を受けて退院したばかりで、歩行さえ思うようにならないが、このままでは必ず殺される。よし、逃げられるだけは山に逃げよう。私は無理矢理妻をせき立てて、官舎に戻り、新しいもんぺ、地下足袋をつけさせた。
    
つづく。


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YOUR-MOM

このような戦況の時に次に何をしたらよいのか瞬時に正しい判断をするのは大変ですね。 
by YOUR-MOM (2017-10-11 06:27) 

mimimomo

ただただ恐ろしいです。隣に妙な国がある今の日本、どうなるのかとつい考えてしまいます。
by mimimomo (2017-10-11 07:57) 

kohtyan

昭和18年に、ソ連軍が攻めてくる場合に備えて、トンネルが造られた
業務課長は、よく情勢を把握されていたのですね。大本営より、的確です。
by kohtyan (2017-10-11 17:56) 

美美

恐ろしい情景が目に浮かぶようです。
by 美美 (2017-10-11 23:14) 

ゆうみ

どんなに怖かったろうと思います。
by ゆうみ (2017-10-13 11:53) 

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